九十九話
アリアの言葉によって、翌日から瑠と慧の顔を見るだけで意識してしまうようになった。じっと見つめられると頬が火照っていく。
「どうしたの? 熱があるんじゃないのか?」
覗き込むように慧が聞いてきて、視線を逸らしどきどきしながら答えた。
「熱なんかないよ」
「そう? すごく赤いけど。具合が悪いなら無理しないで言うんだよ」
「わかってる。ありがとう……」
小さく頷き、大急ぎで走って離れるの繰り返しだ。アトリエにも行きたいけれど、緊張でいっぱいでどうしようかと授業中でも考えていたせいで、唯一得意な国語のテストも最後まで解けなかった。体育では何度も転ぶし、クラスメイトから笑われてさらに恥ずかしかった。放課後にゆっくりとアトリエに向かい、深呼吸をしてからドアを開けた。瑠の背中を見て、二人きりでいられる余裕がないという焦りが溢れ、慌ててドアを閉じた。その音で瑠も気付いて立ち上がり、廊下で照れながら全身を震わせている爽花に珍しく声をかけた。
「何つっ立ってんだよ。入るなら入れよ」
「いやいや……」
「熱があるなら帰れ。ここは病院じゃねえぞ」
ぶっきらぼうな口調に、ふっと赤い頬が元に戻った。どうやら瑠とは普通に会話できるらしい。慧は優しすぎる。
「熱なんかないよ。馬鹿は風邪ひかないっていうでしょ」
「じゃあ、またあのくだらないおしゃべりか。俺を幸せにしたいとか」
「くだらなくないよ。あたしは瑠を独りぼっちにさせたくないって思ってるの。ただ瑠が幸せになれば」
「すでに俺は幸せだよ。いちいちお前に助けられなくても護られなくても独りで幸せは掴める」
「そんなの嘘だよ。本当は、瑠は欲しいものがあるんじゃない?」
じろりと瑠は目つきを変えて爽花を見下ろした。
「欲しいもの?」
「俺は欲しがりじゃないって話してたけど、瑠にも一つくらいは欲しいものがあるんでしょ? 幼い頃から服は慧のお古で、絵具しか買ってもらえなくてストレス溜まってたんでしょ?」
質問しなくても爽花にはわかっていた。瑠が欲しいのは新しい愛。渇いた胸に新しい愛を注ぎ、心地よくなりたい。孤独で幸せなど掴めるわけがない。ふん、と瑠は腕を組んで横を向いた。
「あるとしたらどうするんだ? お前が届けてくれるのか?」
「それは……。無理だけど、でも」
ふと瑠は俯き、ぼそっと呟いた。しかし残念ながら爽花の耳には入らなかった。
「えっ? 何て言ったの?」
「さあな。お得意の妄想でもしろよ」
「妄想って……」
むっとして拳を作り固く握りしめた。どうやら瑠は爽花を妄想好きな人間だと感じているらしい。
「用がないなら帰ってくれ。こう見えていろいろ忙しいんでね」
「アリアさんが、瑠は想いやりがあるって褒めてたよ」
無意識に口から漏れた。慧よりも瑠の方が想いやりがあるとはっきり言っていた。
「風邪の看病も瑠がしたんだってね。慧は薬を買いに行くって言い訳をして、あたしのアパートに来てたもんね。瑠のおかげで、あたしも救われてるんだよ。いつも瑠は自分を悪く考えてる。ネガティブになったらだめだよ」
先生にこだわって、いつまで経っても前進しようという態度にならない。こんな生き方嫌だと瑠自身が変わらなければ無駄な時間が流れていくだけだ。ふう、と面倒くさそうにため息を吐いて、瑠は呟いた。
「ああ言えばこう言う奴って、声聞くだけでうんざりするな」
「うるさいな。全部瑠のせいなんだよ。慧みたいにきらきら輝く毎日を送りたいって願わないのはおかしい。幸せになりたいって祈って、叶うように瑠が頑張らないと。まずはダンマリをやめて、いっぱいしゃべることだね。たとえ怖がられても素直に歩み寄ろうとすれば、きっと仲良くしたいっていう人が」
「いねえよ。昔、俺が話しかけたら逃げられて、あっちに行けって白い目向けられたからな。何回も。すでにお前が言ったことは試してるんだ。それで、もうそういう人間としか見てもらえないって決めた。まあ別に困ってはいないけどな」
驚いて体が動かなかった。体験済みとは知らなかった。おかしいのは瑠ではなく、周りにいる人たちだと改めて確信した。
「ほらな。もう孤独のままでいる方が楽だってわかっただろ。きっと生まれつき孤独なんだろ」
「あ……あたしは、瑠と仲良くなりたいよ……」
「はっ?」
「あたしは、瑠と繋がりたい。瑠の正体を暴きたい。瑠が本当はどんな性格なのか答えてほしい。あたしじゃだめかな……」
勝手に言葉が出てきてしまう。止めようとしても無理だ。
「瑠に連れて行ってもらわなかったら、イチジクさんに会えなかったよ。イチジクさん、瑠を孫みたいに可愛がってるんだよ。瑠のためなら何だってやるって言ってたもん。瑠を捨てる神様はほとんどいないよ」
世の中は持ちつ持たれつ。捨てる神もいれば拾う神もいる。くよくよする必要など全くない。拾う神の方が多いからだ。
「お前みたいなドジと関わるとろくな目に遭わないからお断りだ」
「どうして殻にこもるのよ。ポジティブにならなきゃだめだよ」
睨んだが、無視をして瑠は絵画に戻ってしまった。その後ろ姿が可哀想だと悲しくなって、柔らかく背中から抱き締めた。
「次は何だよ」
「いいじゃない。ぎゅっとしてたいんだよ」
触れ合っていたら少しは愛が注がれるかもしれない。瑠は手を止めて筆を机に置き俯いた。嬉しいのかイラついているのか伝わらなかったが、距離が縮まっているように爽花は感じていた。こうやって瑠を抱き締めたのは初めてだ。双子でそっくりなのに慧とは違うのに少し驚いた。どくんどくんと鼓動が速くなり、頬が熱くなった。しばらくその状態だったが、瑠はそっと囁いた。
「……こんなことしても、俺はお前と友人になるなんて思わないからな。さっさと出て行けよ」
だが嫌がってる口調ではなかった。爽花も抱き付いたまま囁いた。言い返すのではなく、心の中に浮かんでいる言葉をはっきりと伝えた。
「ふうん。瑠もあったかいんだね。いっつも冷たいこと言うから、体も冷たいのかと思ったのに。不思議なこともあるもんだね」
「うるせえな。人間なんだから熱いのは当たり前だろ。いい加減にしろ。絵の邪魔をするな」
爽花の想いは瑠には届かない。邪魔と言われては仕方がない。諦めて、黙ったままアトリエのドアを閉めた。




