九十八話
瑠は悪者じゃない。悪者だったら綺麗な絵は描けない。瑠の心は薔薇のように高貴で純粋なのだ。へこんだキャンバスを眺めながら、悔しさでいっぱいだった。もう瑠は慧の言いふらしによって裏で隠れながら過ごすしかないのか。表舞台に立ちたくさんの人たちに囲まれ尊敬される瑠の姿が頭に浮かばない。せっかく描いた作品も狭いアトリエに置きっぱなしで褒めてもらえない。なんてもったいなくて空しいのか。幸せだけの人も不幸だけの人もいないのはわかっている。先生と妻になった女性は結ばれるまでにどれくらい時間がかかったのだろう。冷たく突き放されてもずっとアトリエにいたとアリアは話していた。毎日、暇さえあれば先生の元へ行き、褒めて応援したと感じる。誰だって頑張って作り上げたものをすごいと褒めてもらったら嬉しい。もっと褒められたいと練習し、さらに評価は上がる。爽花もそれを信じて瑠の絵を褒めまくっているが、なぜか「ありがとう」も答えずニコリともしない。勝手にやってろという冷たい態度、お前にすごいと言われても満足しないという気持ちが飛んでくる。それでいて、突然絵をプレゼントしたり瑠の方から歩み寄ろうとしたりする。気まぐれすぎて振り回されてしまう。悪魔だったり天使だったり、ついて行けない。
そんな毎日の中でアリアとまたお茶を飲むことになった。偶然出会い、静かな喫茶店に行った。
「アリアさん、前にお祈りしてましたよね? あれってどういう意味だったんですか?」
椅子に座り素直に質問すると、アリアは小さく頷いた。
「泣いてるところ、見られちゃったのね。……あれは、二度と悲しい出来事が起きないお祈り。私たちも周りにいる人たちもみんなが笑顔になってほしいの。一人で夜に月を見ていると、不思議だけど涙が出てきちゃうのよ。寂しくなるの。それに月は神様だって私はずっと思っているのよ。幼い頃から、そう親に教えてもらってきたからね。ただし祈るのは一人でいる時だけ。となりに爽花ちゃんが眠っているなら、お祈りは必要ないわ」
瑠が「消えたくないから祈っている」と言っていたのを思い出した。「悲しい出来事」と「消えてなくなりたい地獄」は大体似たような意味だと感じた。意外とアリアのことは瑠の方が詳しいようだ。爽花の想いが届いたのか、アリアは話した。
「実を言うと瑠は想いやりがあるのよ。慧よりもね。私が風邪をひいた時も、看病してくれたのは瑠よ。慧は薬を買いに行くと嘘をついて、爽花ちゃんのアパートに遊びに行ったんでしょう? 慧は自分に有利になるか先に考えて、どう動くか決めてるみたいね。お友だちとの関係も、相性がいい子と悪い子との態度は全く違うらしいわ。アパートに行ったのも、風邪にうつりたくないから家から逃げたのかもしれないわね」
突然の慧の本心に驚いた。母親なら息子について詳しいのは当然だ。慧は爽花が現れ恋に落ちたら、今まで一生懸命プレゼントをしていたファンクラブと早々と別れていた。女の子たちの努力を一瞬で水の泡にした。あまりにも冷たいと爽花はファンクラブたちを哀れに思った。それに以前、慧にアパートで襲われそうになったが、怪しいと予想して尾行していた瑠が助けてくれた。慧の部屋で裸体で抱き合った時も瑠が来たから慧は解放した。ストーカー集団だって、瑠が怒鳴らなかったら未だに続いていたかもしれない。慧以上に護られている気がする。縁の下の力持ちという役目を担っている。
「……はっきり言って、瑠は特別な子だわ。慧より魅力が溢れてる。とっつきにくいけど、性格が悪いわけじゃないの。心の奥底には優しさと想いやりがきちんとあるの。ただ、奥にあるから周りに気づいてもらえないのね。優しさを見つけてもらえない、とても可哀想な子。爽花ちゃんがほったらかしにできないのも、そのせいでしょう?」
「はい。瑠はあたしの癒しなんです。瑠の絵は、ほっと安心するんです。だから……離れ離れになりたくない……」
「ありがとう。口では伝えないけれど、瑠も爽花ちゃんには感謝してるわ」
アリアは、爽花が瑠の人生を変えるのではと期待している。瑠が愛で満ち、孤独の世界から這い出せると信じている。
「ねえ、もしも瑠が明るくなって優しく笑えるようになったら、爽花ちゃんはどうするの?」
「えっ? どうするって?」
「瑠と慧、どちらを選ぶのかしら? それとも違う男の子にする?」
「え……選ぶって……」
ふう、と息を吐き、アリアは真剣な表情になった。
「私の娘になってほしいの。爽花ちゃんと一緒に暮らしたいわ」
どくんと心臓が跳ねた。瑠か慧の嫁になってくれという意味だ。しかし今は答えられない。
「それは……瑠の心の扉が開いてから決めます」
「だめかしら? 正直に答えて。怒ったりしないから。爽花ちゃんの気持ちを知りたい」
「だめとかそういうんじゃなくて……」
声が震えてしまう。娘になりたいと言ってもなりたくないと言っても後悔する気がした。戸惑っている爽花の想いが届いたのか、アリアは優しく囁いた。
「……いきなりお願いされても困っちゃうわね。びっくりさせてごめんなさいね。返事はいつでもいいわ。嫌ならはっきりと嫌と言ってね」
「嫌だなんて言えません……。すごくお世話になってもらったのに、あまりにも酷いじゃないですか。だけど、あたしでいいんですか?」
アリアの瞳が丸くなった。よくわからなかったようだ。仕方なくもう一度繰り返した。
「あたしはドジで半人前で可愛くもないのに……。瑠も慧も、美人で素敵な女性の方が似合ってますよ。あたしなんか平凡で普通過ぎて……。迷惑ばっかりかけちゃうんですよ」
まだ恋愛に臆病なのかと呆れられてもおかしくない弱々しい口調だ。情けなくて恥ずかしくなる。アリアは小さく頷き話し始めた。
「爽花ちゃん、外見なんかどうでもいいのよ。ドジで半人前でも構わないからこう言ってるのよ。私は爽花ちゃんが頑張ってる姿、喜んでる姿、どんな姿もお気に入りなのよ。いつか爽花ちゃんのお家にも行きたいし、お父様ともお母様とも仲良くなりたい。もし叶えてほしい願いがあるかって聞かれたら、爽花ちゃんと暮らしたいって答えるわ」
一気に胸に緊張と重い鉛が溢れた。慧はまだいいが、瑠と結ばれたらどうなるのか怖くなった。愛することも愛されることもほとんど未体験で生きてきた瑠と上手く付き合っていける自信がなかった。すぐに亀裂が入り別れを告げられたらショックも大きいだろう。初恋なら余計深く残る。
「まあ、未来について悩んでてもしょうがないわね。まだ瑠は笑えていないんだし」
爽花の暗い表情からか、アリアは呟いた。気付かれないように、こっそりと安心の息を吐いた。
結婚は必ずしも幸せとは言えない。最後まで二人でいられるのは一握りだと爽花は考えている。人間は基本的に新しい物好きなため、古い相手に嫌気が差して他人に乗り換え裏切るのも多い。不倫で離婚する夫婦はいっぱいいる。そしてその度に傷が一つ二つと付き、次の恋愛も失敗しないか不安になる。過去は変えられないので嫌な記憶が溜まっていくのだ。爽花はそういう失敗をしたくない。京花やアリアのように大恋愛をしたい。
爽花が黙りこくり、アリアは「帰りましょう」と短く言った。頷いてゆっくりと立ち上がった。
まさかアリアにまで結婚のお願いをされるとは夢にも思わなかった。いつも穏やかなアリアの声が、ほんの少し固くて真剣だとひしひしと感じた。自分に娘がいないからではなく、全員が笑顔になれるように考えている。だから泣いて神に祈っているのだ。ぜひともアリアの想いを叶えてあげたいが、とりあえず今は無言で通すしかない。
「瑠が明るくなったら、潤一さんみたいになるのかな……」
外は瑠で、中は慧でできているような父親の潤一の顔が蘇った。もし結ばれ義理の親になるのなら、アリアと潤一がいい。京花たちも喜ぶし、あのお城にも住める。爽花の返事だけで幸か不幸か決まる。あまり曖昧にし過ぎはよくないが、まだはっきりと答えは思い付かなかった。




