九十七話
どこかにいるかもしれない神様。その神様は捨てるのか拾うのかは誰にもわからない。それと同時に、アリアの涙と古紙の文章も気になって仕方がなかった。毎日寝不足で、受験勉強もぼんやりしてしまう。ふとある疑問が生まれてアトリエに向かった。背中から瑠に質問した。
「瑠は、これからどう暮らすの?」
美大に通うとか本格的に画家を目指すとか、選択はたくさんある。しかし瑠は振り返らずにぼそっと呟いた。
「そんなの決まってねえよ」
「えっ?」
「そんなの、今決めたってどうしようもないだろ。未来について考えたら何もできなくなるぞ」
よく意味がわからなかった。もしかしてきちんと学校に通っておらず、志望校なども見つからないからかもしれない。
「だけど曖昧にしてたら後で大変な目に遭うよ。大体でいいから将来どんな自分になりたいか想像しておかないと」
言いながらだんだん緊張が溢れた。爽花も曖昧にしている慧と瑠の関係をいつかはっきり告げなくてはいけない。いつまでも保留はしていられない。無意識に俯くと瑠はまた呟いた。
「どんな自分ねえ……。考えたことねえな。お前は俺と頭の構造が違うんだな」
「そりゃそうでしょ。他人なんだから」
そう。爽花と瑠は三年間も一緒にいたのに、未だ立ち位置は変化していない。明らかに瑠は爽花に興味を示していないし、慧と仲良くしていても慌てたり疑ったりもせずマイペースに絵を描いている。つまり瑠は先生しか意識しておらず、爽花なんかどうでもいいのだ。ただ先生だけ追いかけて、先生と繋がっているなら安心して過ごせる。爽花なんか必要ない。しかし瑠に興味を持ってもらえなくても爽花は瑠を諦めていない。瑠のガチガチに凍り付いた心の扉を開くまではそばにいて、こっそりと近づこうと努力している。
「じゃあ瑠には夢はないの?」
「夢?」
「そうだよ。こうなったらいいなっていう願い。叶ってほしい願い。一つくらいはあるよね?」
どくんどくんと鼓動が速くなった。瑠の本音が聞けると期待した。
「だから、そういうのは考えてねえよ。何度も言わせるな」
「どうして素直に答えないの? 殻にこもっちゃうの? ちょっとくらい教えてよ」
「教えたら、お前が叶えてくれるのか? 神様じゃないお前にいちいち話すのは面倒だろ」
また突き放されてしまった。はあ、とため息を吐き、がっくりと項垂れた。
「なら、もしあたしが神様になったら話してくれるの?」
口から声が漏れた。驚いて、やっと瑠は振り向いた。
「神様になったら?」
「瑠は捨てる神あれば拾う神ありっていうことわざ知ってる? 見捨てる人もいれば逆に助けてくれる人もいるからくよくよするなってたとえ。アリアさんが言ったんだよ。恋愛は触らぬ神に祟りなしって最初決めてたの。恋人なんか作らない、誰とも付き合わなければ後悔しないってね。だけど本当は捨てる神あれば拾う神ありが正しかったんだ。アリアさんが言わなかったら、あたしずっと間違えたままだったよ」
あの衝撃は今でも忘れていない。恋愛は捨てる神あれば拾う神ありが正解で、辛くも苦しくもない。結婚し子供まで産んだ母親は同じ言葉を返してきた。不安や悩みで落ち込んだり、ぐるぐる振り回されるのは当然で、始めから仲良しで喧嘩もないカップルなんかいない。先生も妻を嫌がったらしいし、みんなが経験するのだ。爽花と瑠も相性はよくない。けれど好きなものは似ているしどこか共通点がある。完全に頭の中が違うわけではない。ふん、と瑠は腕を組み抑揚のない声で言った。
「お前が出会ったのは拾う方でよかったな」
「拾うって……。慧のこと?」
「あいつはお前がいないと生きていけないくらい愛してるからな。あいつと一緒にいれば死ぬまで幸せでいられるぞ」
どこか遠くを眺めるような瑠の目をじっと見つめた。フランスに住んでいる、なかなか会えない先生を想っているのだ。瑠が愛し愛されるのは先生しかいない。先生とそばにいたいから絵を描いているのだから。
「……大学生になったらフランスに行く?」
爽花がそっと聞くと瑠は視線を向けてきた。
「先生に会いに?」
「うん。ずっと離れ離れだったから、先生も瑠に会いたがってるもんね。大人になった我が子に会いたいよね。瑠も描いた絵を見せて褒めてもらいたいでしょ」
すると瑠は俯いた。あの日と同じ姿だ。先生は俺なんか忘れていると諦めた、沈んだ表情の瑠だ。
「ちょっと、どうして暗くなるのよ。先生に会えるのに……」
「無理だ。先生は俺を忘れて、絶対に覚えていない。絵を持って行ったって褒めてくれねえよ」
「どうしてそんなこと言うの? 先生が可哀想じゃない。それとも先生は病気にでも罹ってるの?」
「病気なんかじゃねえよ。元気に暮らしてる。フランスのどっかで」
「なら問題ないじゃん。パスポートもあるしフランス語も話せるんだから無理じゃないよ。あっ、もしかして家がわからないの?」
「家は覚えてる。庭の薔薇が綺麗な白い壁のでっかい屋敷だ。ほとんど使ってるのは小さいアトリエだけどな」
イチジクの庭が蘇った。イチジクも庭に花がたくさん植えられていて大きな日本家屋に住んでいる。ただし一人しかいないので使ってる部屋は少ないだろう。屋敷ということは先生もかなりの金持ちだったようだ。ただ外側が立派でも中はすっからかんでは、とても羨ましいとは感じられないが。
どこにも欠けた部分はないのに頑なに否定するのはおかしい。爽花にはこれ以上の質問は思い浮かばなかった。
「……先生は、瑠を待ってるはずだよ。一回でいいからフランスに行って、安心させてあげた方がいいよ。あたしも卒業したら一度実家に戻って、お父さんとお母さんとおしゃべりしてから一人暮らし始めるつもり。本当は独りは嫌だけど、大人にならなきゃいけないもんね」
慧とも違う大学に通ったら余計話し相手がいなくて寂しい。けれどいつまでも人に頼ってばかり甘えてばかりではだめだ。ドジで半人前の爽花とさよならするのだ。それに二度と会えないわけではなく、家に行けば慧だけではなくアリアにだって会える。完全に離れ離れにはならないから安心していられる。それなのに瑠は大学生になっても先生と会えず孤独なままだ。卒業する前に瑠の人生を明るくさせる必要がある。慧と恋人同士になるかはその後ようやく考えるのだ。とりあえず曖昧な状態でいるしかない。瑠はダンマリで励ます爽花を無視して絵を描き始めた。
アパートに帰り、ぐったりと重い体でベッドに倒れた。実際に重いのは心の方だが、体と心は繋がっているため体も疲れる。暗い瑠の姿が頭に浮かんで不快になった。二度と弱々しい瑠を見たくなかったのに。真っ直ぐキャンバスに向かって堂々としているのが瑠のイメージだ。俯いて落ち込んでいる瑠なんか嫌だ。しっかりと椅子に座って力強く絵を描いている瑠を、爽花は何度も見てきた。素晴らしい作品を生み出す左手を、どきどきしながら眺めた。繊細で派手でも地味でもない色がキャンバスに塗られ、美しい花が咲き誇っていく。そしてプレゼントもされた。今は壊されてへこみクローゼットの奥に立てかけているだけで、ちっとも美しくはない。ふと、慧が恨まれても文句は言えないと話したのを思い出した。恨まれても仕方がないということは、最初から自分は爽花を傷付ける酷い奴だとわかっている。わかっているのに暴走するのは本当に辟易する。もっと想いやりがあると信じていたのに、裏切られたとショックだ。「あたしは慧に愛されて幸せ」と答えたのも、とりあえずの言い訳で、本心からの言葉じゃない。こう言っておけば相手は満足するだろうという適当な気持ちだ。宝物を壊した人に感謝するわけがない。むしろ慧のせいで瑠との距離が離れていく気がする。悪者扱いはしないが、少し慧のイメージが変わっていた。それよりも、もっと自分の方が汚れているのは、もちろん理解している。
「悲観的にならなくてもいいじゃない……。フランスに行かなかったら先生が可哀想だと思わないのかな……」
独り言が漏れた。瑠だって、先生の愛を胸いっぱいに受けたいだろう。まさか行くのが面倒だとか、先生の喜ぶ顔など嬉しくも何ともないのか。あまりにも放っておかれ孤独が長すぎたから、先生への愛も失ったのか。しかし、もしそうなら油絵を描くのもやめるはずだ。瑠が絵を描くのは先生を愛しているから。そばにいたいから。離れ離れになりたくないから。
「どうして無理なんだろう。先生は元気で家も覚えててパスポートもあるしフランス語も話せる。どこにも問題はないのに……。どうしてだめなんだろう……」
瑠の言いたいことが理解できない。すべて揃っているのに無理だと答えるのが不思議で堪らなかった。
またアリアの真似をして、夜遅くに月を見上げてお祈りをした。涙は流れなかったが気持ちはしっかりと込めた。
「瑠が先生と再会できますように……。先生に褒められて、愛で心が暖かくなりますように……。神様、お願いします……」
どうか拾う神様が爽花の望みを汲み取って叶えてほしいと必死に祈った。いつの間にか自分ではなく瑠の人生を強く考えるようになっている。アリアは爽花ちゃんが幸せなら私も幸せと言ってくれた。それと同じで瑠が幸せになったら爽花も幸せなのだ。孤独の瑠を先生みたいに助けて表舞台に引っ張り出し、輝かしい日々を送ってほしいのだ。慧よりももっときらきらと輝いてもらいたいのだ。
「瑠がにっこり笑えるように……」
「無理だ」
瑠の声が胸の奥で響き、黙った。なぜ無理なのかという疑問で祈る想いが消えてしまった。
「……瑠は、ずっと独りぼっちなの? 神様、瑠を助けて……」
呟き下を向いた。本当に瑠が穏やかに微笑む時が来るか不安になった。そのまま布団に潜り、ぎゅっと目をつぶった。




