九十六話
喫茶店のドアの前で待っていると、慧が手を挙げて走ってきた。
「ごめん。遅れちゃった」
「いいよ。あたしも今来たところだし」
「そっか。で、話って何?」
さっそく聞かれ、どきどきしながらそっと話した。
「みんな、あたしたちは恋人同士だって思ってるみたいなの。もし恋人同士? って聞かれたら、まだ友だち同士だよって答えていいよね?」
「……うん。いいよ。でも誰に言うの?」
少し嫌味な響きが混ざっている。ぎくりと冷や汗が流れた。
「カンナとかお母さんとか……。とにかく聞いてきた相手だよ」
嫉妬深い慧が暴れないように、一応確認したかったのだ。また疑われて泣く羽目になる。どうして慧と付き合わないのかと、爽花は頭がおかしいと感じる人がいるはずだ。こんなに理想の彼氏に愛されているのに戸惑う女子などいるわけない。慧は優しいし穏やかだし王子様だが、実は妬みが強く詮索魔に豹変する危ない面も持っている。人間だから、いつか本当の自分が現れる時がある。ずっと天使みたいに明るい人も、逆に悪魔のように暗い人もいない。慧と瑠によく教えられた。
「ごめんね。必ず返事はするから、今はそういう関係でいてほしい」
「わかってる。多分爽花はそう考えてるんだろうって予想してたから」
「予想してた?」
驚いて目を丸くすると、慧は寂しげに微笑んだ。
「……熱出した時、俺のこと嫌いかって質問しただろ。だけど爽花は誤魔化して、はっきりと答えなかった。だから、もしかして俺は爽花の彼氏にはなれない男かなって思ってる。いっぱい酷いことしたし、恨まれても文句言えないよ」
「待ってよ。あたしは別に慧が嫌いってわけじゃないの。慧にはお世話になってるし、感謝で溢れてるよ。弱気にならないで」
「……そうだね。ごめん。すぐネガティブになる癖、全然治らないよ……。情けないな……」
視線を逸らし、はははと軽く笑った。いたたまれなくて、余計なことを話さなければよかったと後悔した。
「外にいてもしょうがないね。中でおいしいお茶飲もう。せっかく喫茶店に来たんだから」
うん、と頷き、店のドアを開いた。奥の席に向かい合わせに座った。慧がこうして奥を選ぶのは、爽花とできる限り二人きりになりたいからだ。爽花の声を聞いて、きっと慧は癒されるのだろう。爽花が瑠の絵を見て癒されるのと同じだ。自分を暖かく包み込んでくれる存在は手放したくない。爽花が瑠と離れ離れになるのを恐れているのと同じように、慧も爽花と離れ離れになりたくないのだ。そのため爽花が瑠の方に近づこうとすると慌てて傷つけてしまうのだ。奪われたくない。取られたくない。しかもあのライバルの瑠に……。
だが爽花は瑠を諦めていない。瑠と離れないよう追いかけて、距離を狭めようとこっそり努力している。慧の睨みの鋭さが冷たくなるのも爽花が瑠と二人きりになりたいと願い続けるからだ。もし瑠がいなかったら、出会わなかったら、今頃素敵なカップルになっていた。ふとカンナの言葉が蘇った。もし男子が二人いて、どちらかと付き合わなければならなくなったら、カンナは片方を捨てもう片方と付き合うと答えた。爽花の場合、瑠か慧のどちらと離れて後悔しないかという意味だ。わがままなことに爽花は両方ほしい。どちらも心地よいから、常に一緒にいたい。瑠も慧も捨てたくないのだ。まるで浮気をしているみたいで自己嫌悪に陥りそうだ。返事を待たせて慧を不安にした汚さも相まって黙ってしまった。
「どうしたんだ? 爽花」
呼ばれて我に返った。作り笑いをして首を横に振った。
「ごめん。ぼうっとしちゃった」
「悩みでもあるのか? 俺でよかったら相談に乗るよ」
「大丈夫。悩みなんか一つもないよ」
悩みと迷いと戸惑いでぐるぐると振り回されているのを必死に隠した。
プライベートな話はそこで終わらせ、あとは大学についてのおしゃべりをして、一時間ほど経って店から出た。特に変わったこともなく、無駄なひとときが流れただけだ。
「じゃあ、気を付けてね」
慧に言われ、「慧もね」と短く答えてアパートに帰った。
慧は優しく親切で穏やか。だけどたまに疑ったり詮索魔に豹変したり、嫉妬深い心も持っている。そして瑠はダンマリでとっつきにくく、褒めても「ありがとう」も嬉しそうな笑顔もない。だけどたまに思いやりがあるような行動をしたり、とにかく絵で癒される。どちらも甲乙つけがたい。自分に有利になるのは瑠か慧かと考えている心が醜くて、無意識に風呂に入った。シャワーをどれだけ浴びてもこの心は洗われず、意識しないようにと言い聞かせた。
いつの間にか窓の外に月がぼんやりと輝いていて、アリアの姿を思い出した。明日もいい日が来ますように、二度と消えてなくなりたい地獄に堕ちませんように。そんなイメージだった。水無瀬家にもその地獄が起きたのだろうか。家族の中に亀裂が入っているのもそのせいか。
「いつか、みんなが笑顔になれる日が来ますように……」
試しに爽花も祈ってみた。もしかしたらそんな日が来るかもしれない。みんなの中には瑠も含まれている。瑠が笑うなど想像すらできないけれど、しっかりと望んだ。
放課後、いつものようにアトリエに向かうと瑠の背中に声をかけた。無視されても構わず続けた。
「ねえ、瑠は神様っているって信じてる?」
「神様?」
反応したので少し驚いた。うん、と頷きもう一度聞いた。
「そう。昔から神様っていう言葉があるけど、本当にいるのかな?」
子供っぽい質問でダンマリかと予想していたが、あっさりと答えてくれた。
「さあな。でも、神様がいるって信じると明るくなれるだろうな。ポジティブになるっていうか。どこの誰かが神様なんて名前考えたかわからねえけど、でもどっかにはいるのかもな」
どうやら瑠は何となく信じているようだ。瑠の口からポジティブが出てきたのが意外だった。
「そっか。確かに前向きにはなるね。瑠って物知りだね」
褒めたが瑠は黙って手だけ動かした。ありがとうや嬉しいと話す瑠の顔を見てみたくなった。




