九十四話
喫茶店の席に着くと、注文もせずに爽花は口を開いた。
「久しぶりのお茶飲み嬉しいよ。誘ってくれてありがとう」
「俺は爽花とおしゃべりするのが一番楽しいからさ。本当はまた家に泊まってほしいくらい」
「それはさすがにできないよ。迷惑かけちゃうもん。一人暮らしだから、毎日誰かと会えるのはいいけど」
軽く笑ってから、真剣な眼差しをぶつけた。
「質問したいんだけど」
「質問?」
「この前、慧の家から出る時に偶然古い紙きれを見つけたの。メモ用紙みたいな。文字は掠れて読めないし、くしゃくしゃに折れて端もボロボロな古い紙きれがアリアさんの鏡台に入ってたんだよ。慧は、その紙きれについて知らない?」
ぱちぱちと瞬きをし、慧は首を傾げた。
「古い紙きれ? そんなもの母さんが持ってるはずないんだけどな」
「でしょ? おしゃれで素敵なアリアさんが、あんなに古ぼけた紙きれを綺麗な鏡台にしまってるわけないよね? はっきり言ってゴミだもん」
「ゴミか。ただ捨てるのを忘れて、入れっぱなしだったんじゃないのかな」
「あたしもそう思う。だけど、どうして文字が読めないくらい古いんだろう? たぶん相当昔に書かれたから掠れちゃったんだよ。いつまでもゴミを持ってるっていうのはおかしくない?」
いらないのなら、さっさと捨てるだろう。昔といっても、六十年近くは経っていると爽花は感じた。ということは、アリアが産まれる前からあったという意味だ。アリアの両親が紙きれを与えるとは考えにくい。もし与えられたとしても可愛げもない紙などいらないと捨てるに違いない。ではあれは何なのか。
「まあ確かに変だよね。本当にそんな紙きれなんかあったのか?」
「うん。はっきり見たよ。綺麗な黄金の鏡台の引き出しの中に、古い紙きれがしっかり入ってた。あの紙きれとアリアさんが泣いてお祈りしてたのって、ちょっと繋がってるんじゃないかな?」
ドラマの真似事ではない気がした。紙きれの文章とアリアの涙は同じ場所にあり演技ではない。まるで、明日も平和な日がやってきますようにと願っているようなアリアの姿は鮮明に覚えている。瑠の言葉で言い換えると、二度と消えてなくなりたい地獄が起きませんように、だ。水無瀬家で酷い出来事があって、アリアは暇さえあれば祈っているのかもしれない。ではその地獄とは。地獄と紙きれには、どこにも共通点がない。瑠が、慧にもアリアにも潤一にも似ていないように。
「そんなこと別にいちいち調べなくてもいいじゃないか。俺はそんな話をしたくてお茶に誘ったんじゃないんだ」
「だけどもやもやして仕方なくって。ごめん……」
小さく謝ると、慧も残念そうに俯いた。
話題を変えようと探し、慧が毎回喫茶店の席を奥に決めるのに気が付いた。
「慧って、こういう暗いところが好きだよね。どうして?」
すると慧は顔を上げ、はっきりと即答した。
「だって、別の女の子がいたら爽花の声が聞こえないじゃないか。できる限り二人きりになりたいんだよ」
どきどきと鼓動が速くなった。いきなりお姫さまに生まれ変わった。だがその裏で、もう一人二人きりになりたい人もいるのだと戸惑っていた。瑠とも二人きりになりたい。瑠のとなりに座っているのは自分で、作品を褒めるのも応援するのも自分でいたい。爽花が二人きりになって心地いいのはどちらかと選んでいることに罪悪感が溢れた。
「爽花? どうしたんだ?」
「ご、ごめん。ぼうっとしちゃった」
「悩みごととかじゃないよね?」
「悩みなんて一つもないよ。大丈夫」
ははは、と軽く笑うと、慧は安心する表情になった。
「そうだ。慧には生きがいがある?」
「生きがい?」
「これさえあれば真っ直ぐ歩いて行けるみたいな宝物だよ」
少し間を空けてから、慧はそっと答えた。
「爽花だよ。爽花がそうやって笑ったり喜んだりするとすごく嬉しい。産まれてきてよかったなって思えるよ」
「あたしも、慧に会うとほっとするし明るくなれるよ。絶対に失くしたくないよ」
やはり血の繋がった家族や仲のよい友人や愛しい恋人が生きがいなのが普通だ。しかし瑠は血の繋がりもない先生と油彩だけが生きがいとなっている。
「母さんが、爽花が泊まりに来ないかなっていつも話してるよ。都合がよければ、母さんの願い叶えてくれないかな」
「嬉しいなあ……。あたしもアリアさん大好きだからありがたいよ」
うっとりすると慧は真剣な眼差しを向けてきた。
「爽花は特別な力を持ってるからね。とてつもなく大きな力を持ってるよ」
どきりと心臓が跳ねた。また特別な力が現れた。
「特別な力って?」
「爽花がいると、雰囲気が穏やかになるだろ。爽花は他人まで幸せにするんだ。よく思い出してみてよ。今まで誰かに嫌われた経験ある? みんなが笑顔になれる力のおかげで、俺たちもにっこり笑えるんだ。爽花しか使えない魔法みたいだね」
どくんどくんと鼓動が速くなっていく。爽花はほとんど誰からも嫌われず、初対面でも平気でおしゃべりできるくらい仲良くなる。イチジクも潤一も本当の家族のように絆が深まった。そしてずっとそのまま関係は続き距離も縮んでいる。だがこれは当たり前ではないかと疑問が生まれた。嫌がることをせず愛嬌を振りまいていれば、誰も悪者には見ないだろう。爽花以外にも使える平凡な魔法で特別とは言えない。
店員がじろじろと見てきたので、慌てて飲み物を注文した。そして客を不審な目で見る喫茶店にいいイメージはないので、これからは違う店を選ぼうと慧と決めた。




