九十三話
だいぶ体調がよくなったので、アパートに帰ると告げた。これ以上世話になるのは申し訳なかった。アリアは引き止めたが慧に窘められ「いつでも会えるもの」と素直に頷いた。プレゼントされた服が入った紙袋に洗濯して綺麗になったパジャマも放り込んだ。実は爽花もずっとアリアのそばにいたくて堪らなかった。アリアは第二の母親。血の繋がりがなくてもたっぷりと愛を注いで包み込んでくれる。京花になかなか会えないが、代わりにアリアに可愛がってもらえばいいと安心した。アリアだけではなく慧もイチジクも爽花の胸を暖かくしてくれる。こうやって人は関係が深まり絆が強くなって居場所が増えるのだ。この事実を瑠は理解していない。理解しようともしない。自分には先生が一人いれば充分で、その他は全員どうでもいいと突き放す。居場所もアトリエだけだ。ずっとそうして暮らしてきたのだから爽花が間違えていると話しても聞く耳持たずで信じようとしない。たった一度きりの人生を孤独で終わらせるなんてもったいないではないか。死んでから「やはり孤独は辛い」と知っても過去は変えられない。むしろ死んだら過去も未来もなくなる。また始めに戻れる方法はないのだ。空しく悲しい想いで楽しみも喜びも一切与えられなかったら後悔で泣く羽目になる。何のために産まれ生きているのか、しっかり考えもっと生きがいを探すべきだ。とにかく瑠が幸せになるのが爽花の一番の願いだ。いつの間にか自分ではなく瑠の人生ばかり明るくしようと変わってきた。孤独の毎日を逃れ、たくさん愛してもらう瑠を見るのが夢だ。複雑な気持ちを胸にアリアの部屋から出ようとドアに手をかけた時、名前を呼ばれたような感じがした。はっと振り向き声がした場所に視線を移すと、そこにはアリアの鏡台が置かれていた。黄金に輝き細かい飾りが施され、女性なら絶対に憧れる鏡台だ。緊張しながら近づき、ふと一番上の引き出しがわずかに開いているのに気が付いた。さらにその中にある小さなものが入っているのも気付いた。どきどきしながら引き出しを動かし、その小さなものを手に取った。古い紙きれだった。
「……何これ……?」
端は破れ、くしゃくしゃに折り曲がって、はっきりいって水無瀬の家には似つかわしくない存在だ。文字が書かれているが掠れて読めない。日本語でも英語でもないのはわかった。なぜこんな古紙をアリアは黄金の鏡台にしまっているのか。
「メモ……?」
「爽花ちゃん、用意できた?」
ドア越しにアリアの声が聞こえ、慌てて元の位置に戻した。「はい」と答えるとドアが開いた。
「次、具合が悪くなったら電話かけてね。必ず助けに行くから」
「ありがとうございます。でももう具合は悪くならないと思います。馬鹿は風邪ひかないっていうし」
「ただの冗談よ。約束だからね」
「わかりました。ごめんなさい。いつも迷惑かけて」
そっと頭を下げると、アリアは髪を撫でてくれた。
「爽花ちゃんは大きな力を持っているみたいね」
「えっ?」
「パパが爽花ちゃんはすごい女の子だって感心してたから。確かに私も爽花ちゃんの強さにはびっくりしてるの。普通の子とは違う、とてつもなく大きな力が備わってるのね。自分でも気づかない?」
首を横に振って爽花も聞き返した。
「わかりません。大きな力ってどういう意味ですか?」
「そうなの。もったいないわねえ。でもいつかわかる時が来るはずよ」
なぜ教えてくれないのか残念で仕方なかった。爽花しか持っていない大きな力とは何なのか。
「もう支度できたのかな?」
慧も部屋にやって来た。アパートまで送ってくれるらしい。もやもやしたままでアパートに帰った。
寝たきりだったのでアパートの中は汚れていた。すぐに掃除機をかけて出しっぱなしの皿も風呂も洗った。クローゼットの奥のへこんだキャンバスにも埃が被っていて手で払い、まじまじと眺めた。するとある言葉が蘇ってきた。俺はさっさと記憶を消そうとしているという瑠の言葉だ。もう過ぎたことに一喜一憂してもしょうがない。けれど消してはいけない記憶もある。たとえば先生と絵を描いていた日々を忘れたら大変だ。先生が瑠を忘れるわけがない。我が子と同じ瑠を覚えていないなどありえないのだ。爽花が先生に会ってみたいと話したら瑠は「会えるわけがない」と否定した。日本とフランスの距離は遠いが、無理ではないはずだ。悲観的にならなくてもいいのに。落ち込まなくてもいいのに。
そしてもう一つ疑問が浮かんでいた。アリアの謎の祈りと古い紙きれ。あれはアリアの涙と関係している気がする。ということはあの紙に書かれていたのはアリアの願いだ。しかしなぜあんなに古いのかが不思議だ。文字も掠れくしゃくしゃで端もボロボロだった。アリアがぞんざいに扱ったようには思えなかった。美しい黄金の鏡台には似つかわしくない汚れた古紙。やはり水無瀬家には秘密が隠されている。カンナのチョコレートを食べながら、風呂が沸くのを待った。狭い風呂はあまり癒されないが、ほっと安心した。
翌日、学校に行くと昇降口で背中からカンナが飛びついてきた。うわっと転び、カンナと一緒に倒れた。
「び……びっくりさせないでよ~」
「えへへ。久しぶりだったから嬉しくって。元気になってよかったね。爽花がいないと、全然学校楽しくなかった」
「そっか。あたしもカンナに会いたかったよ」
ぎゅっと抱き締めて、お互いの友情を確かめ合った。カンナにはいつも助けられている。教室に向かう途中で慧にも話しかけられた。
「やっぱり爽花の制服姿は可愛いね。やっと学校でおしゃべりできるよ」
「あたし、けっこう頑丈にできてるから心配しなくていいよ」
「困ったら必ず言うんだよ。我慢しないで」
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
ふと熱で浮かされていた時、慧に恐ろしい質問をされた。「俺が好きか嫌いか」というものだ。また「嫌われても恨まれても文句は言えない」と暗く落ち込んでいた。曖昧な状態で終わってしまったが、慧は今でも爽花の正直な気持ちを聞きたいのかもしれない。けれど本心はまだ言えない。というか、はっきりと決めつけたら後悔するのは目に見えている。嫌いではないと答えたら、なら彼女でもいいじゃないかと返される。瑠の正体も不明で離れ離れになってはまずい。消えてなくなりたい地獄に堕ちて泣きたくなかった。愛しい妻を亡くし、先生は地獄に落ちた。寂しさでどうすることもできなかっただろう。ただひたすら涙を流し、無駄な時間を過ごすだけ。孤独がどんなに辛いかは爽花は想像できなかった。
「いきなりだけど、今週の土曜日にでもお茶飲まないか?」
デートのお誘いはいつでも嬉しい。こくりと頷きにっこりと微笑んだ。
「いいね。駅前の喫茶店?」
「そう。いつもの場所。楽しみにしてるよ」
短く言って、慧は後ろを向いて歩いて行った。




