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九十二話

 夕方の鐘が鳴り、慧とアリアが同時に帰ってきた。アリアは両手に大きな紙袋を持っている。

「遅くなってごめんね。爽花ちゃんの服を買ってきたわよ。色とかデザインとか悩んだけど、すっごく楽しかったわ」

 袋の中にはトップスが五枚、スカートが三枚入っていた。

「いいんですか?」

「だってパジャマじゃ外に出られないでしょう?」

 確かに着替えも用意せずに水無瀬家へ連れてこられたので、現在はパジャマしかない。だからといって買ってもらうのも気が引けた。しかしこの場合は素直に受け取らないと失礼と考えた。

「じゃあ……いただきます。ありがとうございます」

「娘がいるお母さんって、こういう体験ができるのね。羨ましいわ」

 息子しかいない母親なら一度は感じるかもしれない。アリアが爽花を可愛がっているのが、その笑顔ではっきりとわかる。

「さっそく着てみて。サイズは私に合わせちゃったんだけど、大丈夫?」

「たぶん大丈夫です。着替えてきますね」

 しっかりと言い切って、リビングから部屋に移動した。爽花が爽やかなものが好きなのを知っているのか青や緑色などが多かった。どれを着ようか迷い、どきどきしながら身に付けた。こんなに高い服など着たことがなく、とにかく緊張した。部屋のドアを開けるとアリアは廊下で待っていて、うっとりとした表情で褒めてくれた。

「とっても可愛い。モデルさんね」

「モデル? さすがにモデルは大袈裟ですよ。……でも嬉しいです……」

「大袈裟じゃないわよ。爽花ちゃんの可愛さは半端ないもの。慧が惚れるのも当然ね。あの子は昔から綺麗で美しいものが大好きだったから」

 瑠も綺麗で美しいものが大好きだと言いたくなった。アリアは瑠の作品を見たことはあるのか。アトリエは家族でも立ち入り禁止なため、もしかしたら見ていないかもしれない。そもそも見ていたら瑠は自慢の息子と考えるだろう。とりあえずお褒めの言葉をいただいて優越感に浸った。私服に着替えた慧もやって来て「すごいよ」と目を輝かせた。愛しい人が素敵な格好をしていたら喜ぶ。アリアに他の服もと言われたが断った。もう胸は充分暖かくて、これ以上褒められたら頭が爆発しそうだ。この姿を、瑠はどう感じるのか知りたかった。いつもとは違う爽花を、ほんの少しは大人っぽく見てくれるだろうか。しかし慧とアリアに囲まれているので瑠には会いに行けなかった。残念だが仕方ないと諦めた。

 夜に風呂からあがると、アリアの不思議な祈りが蘇った。神様に「明日も何事もなく過ごせますように」と呟いているような行動。なぜ泣くのかも手に持っていたものもわからない。今夜も行うのかと予想していたが、普通のおしゃべりをしてベッドに横たわった。毎晩やるわけでもないらしい。ということは、それほど重要な内容でもないのか。疑問はむくむくと膨れ上がり、なかなか眠れなかった。翌日も病み上がりなので学校を休んだ。すっかり元気だとは話したが、慧もアリアも首を横に振った。爽花もできればゆっくりしたいし、勉強も嫌いなのでわがままは言わなかった。しかし昨日のようにアリアが出かけないので瑠と二人きりになれるチャンスは一度もなく、ただぼんやりと無駄な時間が流れていった。そして何より、アリアが一切瑠の名前さえも口にしないのが不思議だった。慧がいるから演技をするらしいが、慧が学校にいる間は母親の顔をしてもいいのにまだ放っていた。爽花は先生に育ててもらったという事実も聞かされているのにわざわざ演技をしなくてもいいのに。もしかしたらこの演技が常で、もう瑠への愛情は消えたという意味だろうか。悲しんではいるが、実は慧の方が可愛くて、慧さえいれば充分と考えているみたいだ。慧がいない場所はどこにでもある。たとえば慧が早く眠った夜遅くや、爽花とデートをしている間はいつだって声をかけてあげるくらいできる。それを全て行わずほったらかしにしているのなら、できる限り瑠とは関わらず逃げようと決めている感じだ。もう自分には心優しい慧という息子もいるし、今は爽花という血の繋がりがない娘もいる。だから瑠はどうでもいい。そうやって無意識に危ない道を避けて通っているようだ。それでは瑠を可愛がらなかった祖父母と一緒だ。母親に認めてもらえなくてもしょうがない。

「アリアさんは、子供を産むの怖かったですか?」

 質問をするとアリアはにっこりと微笑んだ。

「双子だったから、痛みも二倍じゃないかなって不安で堪らなかった。でも安産だったから、痛みは酷くはなかったわ」

「安産ですか。あたしのお母さんは難産で苦しんだって教えてもらいました」

「そうなの。安産と難産、どちらが多いのかしらね」

「どうでしょう。あたしはまだ出産したことがないからわかりません」

 マリナは妊婦の仲間がいたらしいがアリアはどうだったのか想像できなかった。

「いつか爽花ちゃんも赤ちゃんを産みたい?」

「それは……まだ恋人がいないからどうなるか答えられません」

 慧からは結婚相手と告げられているが、爽花はまだその気持ちにまで達していない。未だに友だち以上恋人未満だ。ただ一つ明らかなのは、恋愛は「触らぬ神に祟りなし」ではなく「捨てる神あれば拾う神あり」だったという事実だった。

「私は、爽花ちゃんは赤ちゃんを産むべきだと思う。絶対に素敵なお母さんになれる。私みたいに間違った子育てもしないはずだもの。女の子は子供を産んで、心の底から愛してあげるという役目があるのよ」

「アリアさんは間違えてませんよ。仕事を辞めて母親になるって考えたんですから。慧しか可愛がらなかったおじいさんとおばあさんが冷たすぎだったんです。アリアさんは何も悪くないんです」

 励ますつもりで言うと、アリアは寂しげに微笑んだ。

「ありがとう。でも過去は変えられない。また二人が赤ちゃんだった時からやり直すのは無理だもの。きっと瑠は、死ぬまで母さんって呼んではくれない。でも、もうわかってるの」

 過去は変えられない。誰も起きた出来事を元には戻せない。どんなに美しくてもお金を持っていても魅力に溢れていても、絶対に不可能だ。だから後悔先に立たずという言葉があるのだ。できるのは、二度と同じ目には遭わないようにと次も失敗しないよう学習するだけだ。爽花も何度も同じ失敗を繰り返しては落ち込んで嘆いてきた。しかしドジで半人前なのが災いして、どうしたら満足な結果に終わるか思いつかない。

「あっ、そろそろ慧が帰って来るわね。夕飯の支度をしなくちゃ」

 壁にかかった時計を見てアリアは立ち上がりキッチンへ向かった。

 料理をしているアリアの背中に、口ではなく視線で疑問をぶつけた。本当に瑠を愛しているのか。慧だけで瑠はいらないと感じているのではないか。演技というのは嘘で、実は慧と同じ気持ちなのでは。もちろん届かず、ただおいしそうな匂いが漂い始めるだけだ。やがて慧も帰ってきた。

「ただいま。爽花、カンナちゃんからお見舞いだよ」

「えっ? カンナから?」

「うん。チョコレート。早く学校に来てほしいって待ってるよ」

 爽花もカンナに会いたかった。こうしてちょっとした気遣いがカンナの素晴らしいところだ。カンナと出会えて、爽花は幸せになれた。もし卒業してばらばらの大学に入学したとしても付き合っていたい。

「カンナちゃん、いい子だね。アンナちゃんの写メも見せてくれたよ」

「アンナちゃんの写メも?」

「うん。俺を友だち扱いしてくれてるみたい」

 ずいぶんとカンナも成長した。昔は慧にラブレターを渡すのも爽花に頼んだくらいなのに。だがあれは爽花と慧を繋げるための手段で、勇気がないわけではなかったのかもしれない。ラブレターのせいで、爽花はぐるぐると振り回された。

「カンナにありがとうって代わりに言ってくれる?」

「わかった。伝えておくよ」

「慧もいつもありがとう」

 心が暖かくなり、自然に笑顔になった。慧の優しさに改めて胸がじんとした。



「慧は、アリアさんが夜にお祈りしてるの知ってる?」

 そっと質問すると慧は驚いて目を丸くした。

「お祈り?」

「泣きながら夜遅くにね。お祈りかどうかはわからないんだけど。もしお祈りだったら、願いは何だと思う?」

「さあ……? 俺は知らないけどな。ただ泣いてたなら、けっこう大きな願いかもね」

 夜に月を見上げて何かを願う。だが毎晩行うわけではなく、家族にも教えない。そんな不思議な祈りなどあるか。

「特に意味はないと思うよ。単に月が綺麗だったとか、ドラマや映画の真似事でもしたんじゃないかな」

 慧があまりにも軽くあっさりとした態度だったため、爽花も深追いしないと考え直した。

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