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九十話

 薬を買いに行けず、寝たきりのまま一週間が経った。やることといえば水を飲んだり面白くないテレビを眺めているだけだ。空腹も感じないため、じっとベッドに横たわり食事も摂らない。体温を計るたび顔が歪む。

「まだ三十八度だよ……」

 独り言を漏らして体温計を床に投げた。今、慧も熱に浮かされているのだと思うと悔しくて堪らなかった。というか、この熱の原因がなぜかもわからない。先生の過去をアリアに教えてもらい、幼い頃に決めた「触らぬ神に祟りなし」は間違いで「捨てる神あれば拾う神あり」が正解と考え直した瞬間具合がおかしくなった。

「お母さん……」

 無意識に京花の姿が蘇った。こうして風邪を引いた時、いつも京花が付き添って看病してくれた。病気だけじゃない。常に爽花を大事に護ってくれて笑いかけてくれたのは京花だ。京花がいなかったら爽花はこの世に産まれなかったし、慧にも瑠にもカンナにもアリアにもイチジクにも潤一にも会えなかった。やはり母親とはかけがえのない存在で、決して解けない糸で繋がっている。そのおかげで安心して過ごせるのだ。しかし瑠には母親がいない。産んだだけで育てていないという理由でアリアを母親と認めていない。瑠の親は先生のみで、血の繋がった家族は他人扱いしている。生きがいだって画力だって先生が現れなかったら与えられなかった。友人も恋人もゼロの孤独なまま、狭いアトリエで絵を描くだけの瑠が哀れで仕方なかった。

 ぼんやりしているとインターフォンが鳴った。起きたくないが無視はできない。ドアを開けると慧が立っていた。

「ああ、慧、元気になったんだね。よかった……」

「よかったじゃないよ。どうしたんだ? 顔真っ赤だぞ?」

「うん……。三十八度あって」

「三十八度? 酷い熱じゃないか! どうして電話かけなかったんだ?」

 だって慧も具合悪かったでしょ、と伝えたくても口が動かなかった。慧は靴を脱ぎ爽花を抱きかかえてベッドに寝かせた。

「薬は?」

「飲んでない」

「薬がなかったら治らないよ。買って来る」

 部屋から出ようとする慧の手首を掴み、首を横に振った。

「いい。いらない」

「いらないなんて言ってられないよ。大人しく眠ってて」

「どこにも行かないで。一緒にいて……」

 京花がそばにいないので、慧に付き添ってもらうしかない。独りになりたくなかった。爽花の想いが届いたのか慧は頷き、バッグから携帯を出してどこかにかけた。救急車かと一瞬頭によぎったが、どうやら違うらしい。短く何かを頼み電話を切った。

「母さんに迎えに来てもらうようにお願いしたよ。とりあえず俺の家に着いてから病院に行こう。まずは薬を飲まないと」

「でも……。迷惑かけちゃう……」

「迷惑なんてないよ。母さんも爽花が大事なんだから。苦しんでる爽花なんか見たくない」

 言いながら爽花の額に滲んだ汗を拭った。この熱はいつまで続くのか不安だったので、ほっと息を吐いた。

 ふと慧はアパートの壁に視線を移した。瑠の絵が飾ってあった壁だ。カッとした慧に壊され、現在はただの白い壁になっている。爽花を傷付けた痛みが胸に溢れているのか、慧の目は灰色に変わった。

「……正直に話してくれる?」

「えっ? 何を?」

「だから……。俺とあいつ、どっちがいいか」

 ぎくりと冷や汗が流れた。作り笑いをする余裕もなく首を横に振った。

「いいっていう意味がわからないから答えられないよ」

「じゃあ俺のこと好きか嫌いか教えてくれ」

 熱で苦しい時にまともに返事などできない。元気な時だって迷ってしまうのだ。

「あ、あたしは、慧を嫌いだって思ったことは一度もないし、これからもないよ。たくさんお世話になってるし、今だってこうやって助けてくれてるでしょ」

 ただ、妄想したり束縛するのはやめてほしい。優しくて穏やかな王子様でいてほしい。疑われて怖くなるし、醜い慧の姿も悲しくなる。もちろんこれは爽花が嘘をついたり誤魔化したりするからで、普通に付き合っていれば王子様でいるのだ。慧を責めてはいけない。

「キャンバスも手袋もめちゃくちゃにしたのに? 宝物をぶち壊しにしたのに? 本当は俺がいなきゃいいのにって願ってるんじゃないのか? 俺がいなければ、あいつと毎日朝から晩までイチャイチャできるもんな」

 緊張の糸でがんじがらめになった。嫌味と諦めがたっぷりの口調だ。

「俺がデートに誘っても最近は嬉しそうに笑わないしな。もうやめろよ、しつこいってうんざりしてるんじゃないのか? ロマンチックな時間を二人きりで過ごしたいのは俺の方じゃないんだろ?」

 慧が豹変する前にアリアがアパートに着いてくれと焦った。下手をすればまた暴走する恐れがある。

「ネガティブにならないでよ。あたしは、慧に愛されて幸せでいっぱいだよ。うんざりなんて感じないよ」

「いいんだ。嫌われても恨まれても文句は言えないって考えてる……」

「爽花ちゃん! 大丈夫?」

 飛び込むようにアリアが登場した。弱っている爽花の手を握り、額に触れて熱の酷さを確かめる。

「すごい熱……。辛かったでしょう? 誰にも知らせなかったの?」

「電話する力もなくって……。三十八度もあるから、立って歩くのもやっとだったんです」

「薬は飲まなかったの?」

「持ってないし、一人暮らしだから買いに行けません。眠っていればいつかは治るって信じて、とにかく寝てました」

「眠っていても治るわけないでしょう。早く車に乗って」

 アリアと慧に抱きかかえられ爽花は車に乗せられた。一分もかからず水無瀬家に着いた。アリアのベッドに横たわり、ほっと息を吐いた。アリアが薬と水を持ってやって来た。

「市販のだけど、とりあえず飲んでみて。落ち着いたら病院に行きましょう」

「ありがとうございます……」

 薬は粉薬で爽花は苦手だったが、我慢して飲み込んだ。ふわふわのベッドに包まれて目を閉じた。



 どれほど意識を失っていたのかはわからない。うとうとしながら頬を撫でると、熱が下がっていた。だるさもめまいも消えて、すっかり回復していた。起き上がるとタイミングよくドアが開き、アリアが声をかけてきた。

「調子はどう?」

「すっごく楽になりました。びっくりです」

「よかった。病院は行かなくても平気?」

「はい。というか、そもそも風邪じゃなかったし。どうして熱が出たかわけがわからないんです」

「汗でパジャマが濡れちゃったけど、お風呂に入りたい? お着替えは私のパジャマを貸すから」

 親切な気遣いを断る理由はなく、「すみません」とお願いをした。シャワーだけ浴びて汚れを落とし、部屋に戻るとアリアが背を向けて夜空を眺めていた。ただ眺めるだけでなく、泣いているみたいだ。さらにぶつぶつと呟いている。日本語でも英語でもなかった。そして何かを持ちお祈りのように合掌をしていた。まるで、明日も良い日が来ますようにと願っている風だった。あまりの驚きで心臓が跳ねた。

 はっと爽花の存在に気づいたらしく、アリアも目を丸くして振り返った。手に持っていたものを隠し、にっこりと微笑んだ。

「さっぱりした?」

「すごくスッキリしました。ありがとうございます」

「他にほしいものは?」

「いえ、もう充分です。いつも迷惑をかけてごめんなさい」

「迷惑なんて、ちっとも思ってないわよ。爽花ちゃんが幸せになったら私も幸せなの」

 女神様だと強く胸に響いた。きっとこの人は女神なんだろう。護ってくれる。愛してくれる。素晴らしい母親だ。それなのになぜ瑠は母親と認めないのか。アリアがほったらかしにしているのは演技なのに……。

「あの、ところで、今話してたことって」

「病み上がりだから、しばらくここでお休みして。学校は、慧が代わりに先生に伝えておくよう頼んだから」

 遮られて仕方なく頷いた。また後で質問すればいい。

「お言葉に甘えて。お世話になります」

「私は、子供が男の子だから女の子が家にいると嬉しいの。話し相手がいないとつまらないし寂しいのよ」

 たとえ血が繋がっていなくても愛し愛されて親子になれる。もうほとんど爽花はアリアの娘だ。瑠が先生を信じ距離が遠くてもそばにいたいという気持ちと一緒だ。先生がどれだけ瑠を可愛がって、逆に瑠がどれだけ先生を慕っていたのかは想像できない。高校を卒業したら、瑠は必ず先生の元に行くだろう。さらに上達し大人になった自分を褒めてもらいたいだろう。もしフランスに行ったとしても日本に戻って来ないのは嫌だ。爽花を癒してくれる瑠と離れ離れになりたくない。

「さて、私もそろそろ眠っていいかしら」

「もちろんです。邪魔してすみません」

 慌ててベッドのはじに移動するとアリアはとなりに寝た。ずっと我慢していたのか寝息はすぐに聞こえてきた。申し訳なくて堪らず、爽花は全く眠れなかった。


 


 

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