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九話

 待ちに待った夏休みになり、自由な生活が始まった。カンナと遊ぼうと計画していたが、実家に行くからと断られてしまった。爽花も帰ろうかと迷ったが、高校生初めての特別な夏休みだからと一人で過ごすことにした。すっきりと晴れた青空が心地よくて散歩に出かけた。可愛い服を着て大好きなバッグを持ってゆっくりと進んでいく。

「新井さん」

 突然呼ばれて足が止まった。声がした方を見ると、水無瀬がこちらへ近づいてくるところだった。

「偶然。買い物の途中かな?」

 以前だったら無視して逃げたくなっただろうが、現在の爽花は違っていた。恐ろしいカッター八つ裂きを助けてくれた命の恩人なのだ。水無瀬のおかげで、いじめられずに済んだのだ。

「散歩してるだけ。買い物じゃないよ」

「そっか。……もし宿題やってないなら、俺とやらない?」

 予想していなかったのでどきりとした。一人でやりたいと答えればいいのに無意識に頷いてしまった。

「うん……。いいよ……」

「じゃあこれからさっそくやろう」

「これから?」

 首を傾げると、水無瀬は輝く太陽のような笑みになった。

「さっさとやっちゃった方が安心するよ。面倒なことから先にやるのが一番だよ」

 それもそうかと考え、もう一度頷いた。

「水無瀬くんの言う通りだね。図書館で待ち合わせでいい?」

「いいよ。遅れたらごめんね」

 水無瀬につられて爽花も笑顔になっていた。「また後で」と水無瀬は手を振り、軽い足取りで走って行った。

 アパートに戻り、宿題を鞄に押し込んでまた外に出た。いいと言ったくせに、なぜか荷物が重く感じる。男子と勉強など経験がないからかもしれない。やめておけばよかったという想いが、うっすらと浮かんでいた。図書館のドアの前で水無瀬は立っていた。爽花に気付くと、こっちこっちと手招きした。

「急に誘っちゃってごめん。でも二人でやった方が捗るし、モチベーションもあがるよね」

 誰にも邪魔をされない席に並んで座り、「そうだね」と答えながら水無瀬の持ち物に驚いた。値段の高そうなバッグに凝ったデザインの腕時計を当然のように身に付けている。お金持ちはブランド品しか使わないと改めて思い知らされ、悔しいという気持ちが生まれた。私服も素晴らしく、灰と白の迷彩柄のズボンとネイビーブルーのシャツはかっこよさを強調しているし、首元が広いので細い鎖骨が露わになっている。整った茶髪、ガラス細工みたいに透き通った瞳、白い肌と三拍子揃っているし、意外と男らしくがっしりとした体つきが色っぽい。全体的に服の方が濃いので、薄い肌は艶やかに光り輝いている。制服と私服でこれほどイメージががらりと変わるのは水無瀬しかいないだろう。この完璧な男子を欲しがるのはわかる。ライバルを殺すまではいかないが、このルックスで落ちない女子は爽花だけかもしれない。

「始めようか」

 呟き、水無瀬はノートを開いた。そこに書いてある文字をちらりと覗いて、がーんとタライが天から降ってきた。字が、とても綺麗なのだ。ペンの握り方も正しく、しなやかな指を器用に操って水が流れるようにさらさらと書く。女子でもこれほど綺麗な字は書けない。あまりにも綺麗過ぎて、自分のノートを開くのが恥ずかしくなった。

 最初に苦手な英語から終わらせることにした。水無瀬も同じく英語に取りかかった。爽花は難しくて悩んでいるのに、水無瀬はいとも簡単に解いていく。完全に手が止まって悶々としていると、水無瀬が声をかけてきた。

「……わからないの?」

 むっとしたがその通りなので、素直に頷いた。

「英語は特にだめで……」

「なら俺が教えるよ」

 どきりとして水無瀬の顔を見つめた。

「でも」

「遠慮しないで。困った時は誰かに頼ってもいいじゃないか」

 遠慮ではなく、おかしな回答をして恥ずかしい姿を晒したくなかった。ありがたいお言葉だが、かっこ悪いところがバレてしまうのが嫌だ。

「どこがわからないのかな」

 水無瀬はすぐとなりに移動し、細い腕を伸ばして教科書を持ち上げた。仕方なく爽花は呟いた。

「……全部……」

 水無瀬は驚いたように目を大きくし苦笑した。

「全部? けっこう量多いけど平気?」

「とりあえず時間はたくさんあるから平気だと思う……」

「そっか。二人で頑張ろう」

「が……頑張ろう……」

 弱弱しく言いながら、がっくりと項垂れた。

 しばらく水無瀬の指導に従って勉強を進めた。水無瀬の説明は丁寧で、厳しくも甘くもなかった。そのおかげで意味不明だった箇所が鮮明になり、一人では何週間もかかる英語がたった数時間で終わった。夏休みで最も心を重くする鉛が一日で消えた。

「新井さんは覚えるのが早いね。記憶力が優れてるんだね」

 穏やかな誉め言葉に、ほんの少し胸が暖かくなった。

「記憶力よくないよ。昨日あったこと、寝たら忘れちゃうし。水無瀬くんの説明も明日になったら忘れちゃってるよ」

「俺もすぐ忘れるよ。また聞きたくなったら、いつでも教えてあげるからね」

 ありがとう、と爽花は深くお辞儀をした。まさか水無瀬が家庭教師になってくれるとは予想していなかった。

 壁にかかった時計が、五時半を指していた。「そろそろ帰ろうか」と水無瀬が言い、爽花もゆっくり立ち上がった。外に出てから、もう一度感謝を告げた。

「今日はありがとう。水無瀬くんって、先生より教え方上手だね」

「新井さんにそう言ってもらえると嬉しいよ。痣は治ったの?」

 そういえば痣の痛みがほとんど消えているのに気がついた。爽花自身も忘れていたことなのに、まだ心配してくれていたのだ。

「大丈夫。治ったよ。……あのね、あたし、水無瀬くんに冷たい態度とってたでしょ。いつも学校で騒いでて、うるさいなって酷いこと言ったでしょ。でもよく考えたら、うるさくしてたのは取り巻きで、水無瀬くんはむしろ親切だったのに……。勘違いしてたよ。悪いのは水無瀬くんじゃないのに。ごめんね。本当にごめんなさい……」

 胸に詰まっていた想いを全て吐き出した。水無瀬がどう返してくるか、緊張して待った。すると水無瀬は爽花の髪を撫でた。

「謝らなくていいよ。俺の方こそごめんな。周りに迷惑かけるなって注意しておけばよかったな」

 心がふわりと宙に浮かび上がった。許してくれないと確信していたので、感動して涙が瞼に溢れた。

「また明日も図書館で宿題しようか」

「うん……。ありがとう……」

 バレないように指で涙を拭い、小さく頷いた。



 帰り道を歩きながら、先ほどの出来事を頭に蘇らせた。水無瀬があんな性格だとは思っていなかった。男といっても、みんながみんな嘘つきで傷つけるわけではないのだと心に刻み込んだ。どきどきして鼓動が速くなっているがこれは恋ではない。水無瀬と付き合ったら得はないと考えてしまう。ただの男友だちでしかなく、これからもそれ以上の関係に発展することは絶対にないのだ。

 


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