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八十九話

 アリアとまたお茶を飲むことになったのは、それから二週間ほど経ってからだった。街中を歩いていたら、薬局で買い物をしているアリアを見つけたのだ。迷惑をかけると一瞬戸惑ったが、とても聞きたい疑問が胸に浮かんでいた。

「アリアさん」

 そっと呼び止めると、すぐにアリアは振り返った。ガラスの瞳が丸くなっている。

「あら、爽花ちゃん」

「お買い物ですか?」

「そう。慧の熱がなかなか治まらなくてね。ずっと寝たきりなのよ。風邪でもないのに。どうしちゃったのかしら」

 熱が治まらないのは、体ではなく心が傷付いているせいだ。今になって酷いことをしたと後悔した。

「……早く治るといいですね……」

「学校も休んでて、みんなびっくりしてるわね」

「はい。慧は人気者ですから」

 担任教師にも後輩にも好かれている。暖かな愛に包まれて、悩みも迷いもない。逆に瑠は誰からも愛されない。油彩の先生しか信じない。

「せっかくだから、お茶でも飲まない? 用があるならだめだけど」

「暇つぶしの散歩なので用はありませんよ。一緒に飲みたいです」

「そう。それならよかった」

 アリアが微笑み爽花もしっかりと頷いた。いつもの静かな喫茶店へ歩き始めた。

 注文してから、ぎゅっと拳を固めてアリアに真剣な眼差しを向けた。

「質問したいんですけど、いいですか?」

「なあに? 瑠のこと?」

「いえ、油絵の先生のことです」

 驚いた表情でアリアも見つめ返した。まさか先生について疑問があったとは予想外だったのだろう。

「先生は孤独が好きだったんですよね。家族とも離れて、恋愛にも興味なかったんですよね? でも結婚したんですよね。どうやって運命の人に出会えたんでしょう?」

 先生の過去など知っているわけないが、この謎を解消するにはアリアに聞くしかない。アリアは視線を逸らし、そっと囁いた。

「出会いというか、たまたま趣味が一緒だったからでしょうね。奥様も油彩が好きで描いていたんだけど、才能がなくて諦めちゃったの。そして何年か経って先生の作品を偶然見て、感動のあまりアトリエまで訪ねていったのね。独りぼっちがよかった先生は帰れって冷たく突き放したらしいんだけど、奥様はいつまでもいつまでもアトリエにいて絶対に帰らなかった。むしろどんどん追いかけて褒めたり応援したり、友人にも紹介したりした。先生は勝手にしろって無視してたけど、ずっとそばにいると愛情って沸くもので、だんだん奥様に喜んでもらいたくて描くようになっていったの。奥様の笑顔が生きがいって話すまでに仲良くなったの。そして、先生の方から結婚しようって伝えたらしいわ。素敵よね。先生たちの恋愛話は、同じく油絵を描いている人の憧れみたいね。油彩が二人を結んだって有名なんですって」

「油彩が二人を結んだ……」

 言葉が口から漏れた。爽花も瑠に帰れと冷たくあしらわれているが繋がろうとしている。いつまでもいつまでもアトリエにいて、ほんの少しでも距離を縮めようと常に考えている。友人に紹介はしていないが、作品を褒め応援も続けている。愛情が沸いているのかどうかはわからないが、もしかしたら特別な存在と思われているかもしれない。爽花の想いが届いたのか、さらにアリアは話した。

「だけど子供は産まれず、奥様は重い病気を患い若くして亡くなられて先生は孤独に逆戻り。一度愛してもらうと、もう独りではいられないの。先生は愛が足りなくて寂しくて泣くことしかできなかった。友人は一人もいないし別の女性と再婚する気もなくて、とにかく死にたくて堪らないって嘆いていたそうね。私は実際に見ていないんだけど、食事も摂らずやせ細って、ガイコツ先生なんて酷いニックネームを付けられて地獄の日々よ。この世から消えてなくなりたいって祈っていたらしいわ」

 心臓が大きく跳ねた。この世から消えてなくなりたい地獄とは先生の過去だったのだ。確かに独りは辛いし、いっそ死んでしまった方が楽だと願うのも当然だ。

「そんな時、自分と全く同じの独りぼっちな男の子が現れたらどうする? 昔の自分とそっくりな瑠がいたら声をかけずにはいられないでしょう? どうして君は独りなんだって。独りぼっちで寂しくないのかって」

 たぶん瑠は逃げたに違いない。赤の他人の上ガイコツだったら余計驚く。

「もちろん瑠は嫌がったけれど、先生の美しい作品に感動して大ファンになったの。絵なんて興味なかったのに。それくらい先生はすごい画力を持っていたってことね」

 そして現在、瑠もその画力を受け継いでいるのだ。瑠は先生と繋がっていたいがために絵を描き続けていく。日本とフランスは遠く離れているが、そうして油彩を描くという行為で愛の糸が途切れないようにしている。返す言葉がなく黙っていると、アリアは呟いた。

「私はね、瑠もきっと先生と同じ恋をすると思うの。あの子は先生とよく似てるから」

「同じ恋? 油彩が二人を結んだっていう恋ですか?」

「そう。油彩が運命の人を連れてくるってね。爽花ちゃんはどう思う?」

 いきなり聞かれても困る。ぎこちない口調で何とか答えた。

「ど……どうでしょう? あたしにはわかりません……」

「そうよね。ごめんね。……慧から教えてもらったんだけど、爽花ちゃんは恋人を作りたくないの?」

「作りたくないっていうか……。その前に終わらせたい大事な問題があるんです」

「終わらせたい問題? じゃあ、その問題が解けたら恋をするつもり?」

 しかしまた返す言葉がなく口を閉じた。それは今は想像できない。ふう、とため息を吐いてから、アリアは話した。

「恋をしないで生きるのはすっごくもったいないわよ。私も昔は友人と付き合う方が気楽だったけれど、恋人ができたらもっと楽しい毎日になったわ。お仕事で一緒に暮らせないけどずっとずっと愛してるし、どんな時でも私には大事な人がいるんだって安心するもの。爽花ちゃんは顔も性格も可愛いし、独りぼっちなんて損よ。結婚して子供を産んで育てるのも大切な勉強よ。恋をしないまま死んじゃったら悲しすぎる。恋に落ちて、たくさんの愛に囲まれて最後まで笑っていられるのって素晴らしいでしょう? もし私が爽花ちゃんのお母さんだったら、絶対にそう話すけどな」

 アリアの言葉は、爽花の心にぐさりと刺さった。母親になった女性はみんな恋に落ちることは楽しく幸せで溢れると必ず言う。誰もがそう話したのだから間違いではない。

「でも……。もし飽きられて捨てられたりしたら嫌じゃないですか。恋愛は触らぬ神に祟りなしって思いませんか?」

 弱弱しく答えると、アリアは穏やかに微笑んだ。

「爽花ちゃん、忘れてない? もう一つの神様が付くことわざがあること」

「えっ?」

 やはり気付いていなかったなという表情で、アリアはしっかりと言い切った。

「捨てる神あれば拾う神ありっていうことわざよ」

 全身が震えた。見捨てられても、代わりに助けてくれる人もいるのだからくよくよするなという例えだ。世の中にはたくさんの数え切れない人たちがいる。みんなが捨てる神ではないのだ。どこかに傷付いた爽花を拾って、癒してくれる人が存在しているのだ。

「爽花ちゃんはただ臆病なだけ。恋は全然苦しくも辛くもないわ。もっと強くならなくちゃ。どこかにいる拾う神様にいっぱい愛されて可愛がってもらうべきよ」

 アリアは両手をぎゅっと握り締めウインクをした。曖昧になっていた決意が、音を立てて崩れていく感じがした。恋は苦しいものではなく楽しいもの。完全に爽花は勘違いしていたという意味だ。「触らぬ神に祟りなし」ではなく「捨てる神あれば拾う神あり」が正解だった。ブドウジュースで喉を潤し、どきどきと速くなる鼓動を落ち着かせた。




 喫茶店から出てすぐに「ありがとうございました」と深くお辞儀をした。そしてアリアの返事を待たずにアパートへ向かって走った。居間に入るとめまいが起き頬が熱くなった。水を飲んでも治らず、試しに体温を計ると三十八度もあった。アリアが風邪をひいているわけではないのに、どうして熱が出てしまったのか。はあ、とため息を吐きベッドに倒れるように寝っ転がった。



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