八十八話
冬休みが終わり新学期が始まった。慧は具合が悪いようで、まだ休みだ。自分で暴走したのだから爽花には関係ない。さっそくアトリエに向かうと、瑠は絵画の準備をしていた。爽花には気付いていない。
「ねえ、瑠」
呼ぶと、一瞬びくっと反応した。しかし口は開かず振り向きもしなかった。そのままでも構わなかったため爽花は続けた。
「アリアさんから聞いたよ。瑠が先生に育ててもらったことも、おじいさんとおばあさんにほったらかしにされたことも、全部」
また反応したが無視をしている。もう一度爽花は話した。
「別に変だとか、そんな生き方だめとか言いたいんじゃないの。ただ、どうしても信じてほしい。先生は、ずっと瑠を愛してくれること。瑠を忘れないで、フランスで待ってるってこと。卒業して立派になった瑠に会いたいって願ってるはずだよ。他人のあたしでもわかるもん。今すぐは無理でも、いつかは会えるんだから、そんなに落ち込まなくってもいいじゃない。あたしも一人暮らししてるけど、いつかはお父さんとお母さんに会えるって信じてるよ? だから心配しなくても」
「余計なおしゃべりはやめろ」
遮られ、はっと口を閉じた。かなりイラついている口調だった。
「余計なおしゃべりじゃないよ。あたしは困ってる人を見捨てられないのよ」
ようやく瑠は爽花の方に体を向けた。ぎらりと鋭く睨みつけている。
「困ってる人を見捨てられない? 悪いけど、俺は何も困ってねえよ。おかしな勘違いするな」
「こ、困ってるっていうか、怯えてるでしょ? なぜかは知らないけど」
「どうして俺が怯えるんだ? 俺はお前みたいに怖がりでもないし誰かに助けてもらったり護ってもらったりっていう支えは必要ないんだ。忙しいんだから帰ってくれ。付き合ってられねえよ」
「瑠って人形みたいだね」
負けじと爽花も言い返した。声のトーンも低くした。
「人形?」
「絵を描くことしかできない操り人形。人間じゃないから感情も生まれないの。褒められてもありがとうとか絶対言わないしニコリともしない。操ってくれるのは先生だけで充分だから、家族も友人もいらない。そんなのちっとも幸せじゃないし嬉しくもないよ。ものすごい特技だって持ってるのに、もったいない」
爽花がここまで話すとは意外だったのか、瑠は珍しく驚いた表情になった。
「操り人形なんて、ずいぶんと失礼だな」
「言われたくなかったら、そのダンマリで頑固な性格治したら? せっかくかっこいい姿で生まれてきたんだから、隠れないでどんどん表に出るべきだよ」
「かっこいい? 俺が?」
さらに目を丸くする。こくりと頷いて爽花は答えた。
「モテモテの慧とそっくりなんだから当然でしょ」
ふいっと瑠は横を向き俯いた。ショックを受けているのかと思ったが、照れているように見えた。
「……女の子に、かっこいいって言われた経験がないんだね。照れてるんでしょ」
「言われてないけど、照れてもいない」
けれどこちらに顔を向けないのは恥ずかしさをバラさないためだと気付いた。頑固でわがままな男でも、おだてには勝てない。
「瑠のかっこよさは半端ないよ。頭もいいしフランス語も英語も話せるし、スタイル抜群でお金持ちで絵もプロ並みだもんね。その性格さえ治せば、相当モテる……」
口を覆われてしまった。じろりと見つめられてどきりとした。
「そういうことは、本人に直接伝えるものじゃないぞ」
「いいじゃない。どうして嫌がるのよ」
「うるせえな。いい加減にしろよ」
緊張していたらしく、瑠は額の汗を拭い、ため息を吐いた。
「あたしはね、瑠にほんのちょっとでもいいから明るくなってほしいの。操り人形から人間に生まれ変わってほしいだけ。感謝されたらありがとうってにっこり笑える優しさを覚えてもらいたいよ。絵を褒めてもダンマリじゃ、あたしも不満だもん。穏やかな心は、きっと美しいよ」
「じゃあ俺は、その余計なお節介をやめてもらいたいね。いちいち俺に構うっていう厄介な行為は醜いぞ。まあ、お前は元々おかしな奴だからしょうがねえか」
「おかしな奴?」
むっとして睨み返すと、瑠はビシッと顔を指差してきた。
「ついさっきは笑ってたのに、今は怒ってて、三分もしないうちに泣いたりするだろ。今日は弱気だったのに次の日は偉そうな態度だったり、ころころ感情が変わるからおかしいっていう意味だ」
確かにその通りかもしれない。いきなり心が晴れたり曇ったりする。幼い頃からこうやって過ごしてきた。
「ドジだからかな?」
「さあな。とりあえず迷惑はかけないだろうな。俺は迷惑だけど」
「……どうもすみませんね」
本当は別の用事でアトリエに来たのに、ただの言い争いになってしまった。落ち込んでいる姿の瑠は空しくなるから二度と見せないでほしいという想いが届いたとは感じられなかった。
「そういえば、誕生日プレゼント」
「ボロボロにされたんだってな」
すでに慧が教えていたらしい。爽花にどつかれた事実も聞いているかもしれない。
「どうして部屋にしまっておかなかったの? だいいち鍵をかけてるのに」
「知るか。ヘアピンかなんかで上手く外したんじゃねえの」
完全に他人事の口調にイラついた。ぐっと拳を作り、大声で叫んだ。
「外したんじゃねえのじゃなくて、ヘアピンで外されないくらい頑丈に瑠が工夫しなさいよ。そんなに簡単に外れたら鍵の意味がないよ。中を覗かれたくないから鍵をかけてるんでしょ? 勝手に自分のものを使われて悔しくないの?」
そういえば携帯電話も慧に隠されたと以前言っていた。あれも慧が部屋に忍び込み取り上げたのだ。
「別に惜しくも何ともないね。むしろずっとしまわれてるより使ってもらった方が嬉しいだろ。とりあえず絵を汚されなければ中に入っても問題ない。そんな細かいことでいらいらしてたらストレスが溜まるし、どうでもいい」
「……あたしのプレゼントもどうでもよかったんだね」
小遣いをはたいて購入したのに、少しでも喜んでくれると信じていたのに、爽花のお祝いの言葉なんか一つも伝わらなかった。あっさりと受け取ったのも気まぐれで、嬉しさの欠片も浮かばなかった。その上慧に踏みつけられボロボロに壊された。
「誕生日プレゼント贈られた経験がないんじゃないかって考えて、一生懸命選んで買ったのに……。余計なプレゼント渡して悪かったね。あたしが馬鹿だったんだね。よくわかったよ」
全身が震え、走ってアトリエから飛び出した。いらいらが増して涙は流れなかったが悲しかった。鞄から財布を取り出し、残っている金額を数えてがっくりと項垂れた。
瑠と距離を縮められるチャンスはどこにもない。やはり瑠は操り人形だ。先生に動かされているだけの人形だ。もう二度と贈り物などしないと固く決意した。




