八十七話
向かい合わせに座り、先に切り出したのは爽花だ。ずっともやもやしていた疑問をそのままぶつけた。
「慧が、おじいさんもおばあさんも絵に興味はないし、家に画材も置いてなかったって話してたの、本当ですか?」
「本当よ。フランスの実家には、絵具も筆も鉛筆さえないの」
「じゃあ絵が描けないじゃないですか」
「興味がないのに、わざわざ買っても仕方ないでしょう? 油彩絵具は値段も高いし。みんなお友だちと仲良くおしゃべりするのが好きだったから、画材は必要なかったのよ」
そこまで言って、アリアは水を一口飲んで喉を潤した。これから本題に入るという感じだ。
「……私が、産んだだけで育ててないから母親と認めてくれないのは話したわね。おじいちゃんとおばあちゃんが代わりに親になってくれた。だけど瑠の親にはならなかった」
「親にならなかった?」
「要するに、可愛がったのは慧だけってことよ。私は二人とも同じように育てていたと思っていたのに、慧ばっかり可愛がって、ほしいものは全部与えて行きたい場所はどんなに遠くでも連れて行って、ものすごく過保護に育ててきたの。だけど瑠は部屋に放っておいて、ほとんど接してこなかったの。服は慧のお古だし、買ってあげるのも絵具だけ。後になって、どうして瑠をほったらかしにしたの? って責めたら、だってあの子は一人で何でもこなせるし、甘えてもこなかったからですって。無責任にもほどがあるでしょう? やっぱり私が育てればよかったって、未だに後悔してるわ。そのせいで母さんって呼んでくれないしニコリともしない。全部間違いだった」
「それって……。虐待ですか?」
「虐待ではないわ。だけど愛情は希薄。瑠は愛を受けた経験がないのよ。そんな毎日だったら、空を眺めたり花を観察したり、ぶらぶらと散歩するしかないわよね。ダンマリで無表情なのは、きっと生まれつきの性格じゃないわ。可愛がってもらえたら、瑠だってお友だちがたくさんいる普通の男の子だったわよ。まるで養子みたいで、血が繋がってないんじゃないのかってみんなから疑われる。頑張って産んだのに養子だなんて……。慧とだって仲良しだったわ。殴り合いの喧嘩なんか、絶対にしなかった」
爽花は子供を産んだことはないが、我が子を養子扱いされるのはショックだろうと痛いほど感じた。母親が子供を想う愛情は計り知れない。宇宙よりも大きいかもしれない。
「……じゃあ瑠は、誰に育ててもらったんですか?」
やはりという目つきでアリアは頷いた。爽花が質問するのを待っていたようだ。
「油絵の先生。血の繋がっていない先生。有名な画家で、ものすごい変人だって噂されてきたらしいわ。とにかく孤独を愛して、昔から家族とも離れて絵ばかり描いてきた。まさに今の瑠。瑠がああいう性格になったのは、先生の影響ね」
先生を命の恩人と呼ぶ理由が明らかになった。確かに血が繋がっていなくても、愛してくれたら親になる。
「でも、どうやって出会ったんですか?」
「街で偶然。先生は、この子を育てるのは自分と直感したみたいね。もちろん瑠は懐かなかったけど、先生の作品に感動して、絵を教えてくださいってお願いしたんですって。……先生は、結婚はしたけど子供が産まれる前に奥様が亡くなられて、また孤独に逆戻り。ずっと死ぬまで独りかって泣いていた時に、自分とそっくりの環境で暮らしている瑠が現れたら声をかけずにいられないでしょう。とにかく愛してくれるのなら、血が繋がっていない子供でも何でもよかったのね」
昔は独りなどへっちゃらだったのに、一度誰かの愛を知ってしまったら独りではいられない。先生は愛しい妻を亡くし、寂しさで胸が張り裂けそうだったのだろう。この辛さは、実際に孤独を経験しているものにしか理解できない。放っておかれていた瑠も先生に可愛がってもらい、距離が縮む喜びを感じていたはずだ。上達すれば褒められるし、もっともっとと努力を重ねてきたから繊細で綺麗な作品が描けるほど成長した。実家に画材がなかったのなら、たぶん先生の家で二人暮らししていたのかもしれない。先生は、愛も画力も生きがいも与えてくれた、たった一人の親だ。最も憧れて信用している存在だ。先生はフランスに住んでいて、高校を卒業した瑠と再会するのを楽しみに待っている。離れていてもずっとそばにいられるようにと花束のつもりでスケッチブックを渡した。先生も、瑠をたった一人の子供と思っているのだ。他人である爽花にだってわかるのに、なぜ忘れているなど沈んでいたのか……。
「先生は、瑠を忘れていませんよね」
「えっ?」
「前に、先生は俺のことなんか忘れてるって諦めてたんです。怖がってるような、怯えてるような……。おかしな話してたんです。大事な瑠のことを忘れるなんて、ありえませんよね。大人になった瑠を、ずっとずっと待ってますよね」
アリアはガラスの瞳を大きくし、ゆっくりと笑顔に変わった。
「そうね。きっと待ってるわ。なかなか会えないけど」
「大丈夫ですよ。パスポートさえ持っていれば平気です。悲観的にならなくていいのに。瑠は勘違いしてますよ。先生はずっと瑠を愛してくれています」
強く言うと、アリアは寂し気な口調で答えた。
「励ましてくれてありがとう。瑠に伝えておくわ」
「はい。よろしくお願いします」
立ち上がり、深々とお辞儀をした。アリアの言葉をまともに聞きそうにないが、とにかくあんなに弱弱しい瑠の姿は嫌だ。
喫茶店の前でアリアと別れ、アパートに向かって走った。ベッドに寝っ転がり、アリアの話を簡単にまとめてみた。まず代理の親の祖父母は慧ばかり可愛がり、瑠はほったらかしにしたこと。そんな瑠を助けて育ててくれたのは血の繋がっていない油絵の先生。孤独が好きなのは先生の影響。先生は結婚したが早くに妻を亡くし、また独りになり、愛してくれる人を探して瑠と偶然出会った。同じ環境で暮らす瑠と関わろうとするのは当然。最初は嫌がったが作品に感動し、瑠も油彩を描き始めた。先生は瑠にとって親でもあり先生でもあり命の恩人でもある。様々な出来事が合わさって、ダンマリで無表情な瑠ができあがった。好きな人に花束を贈るという告白方法も先生の真似だろう。本当に美しいものを知っているから、ロマンチックなひとときも思い浮かぶ。すでに爽花は絵をもらっている。なぜ睡眠もとらずに絵を描いていたのか。どうして爽花に渡そうとしたのか。逆に、爽花からのプレゼントを素直に受け取ったのか。慧に壊されたキャンバスと手袋が胸に蘇って不快になった。いつも邪魔をされて傷つけられて失敗する。瑠の正体を暴くチャンスを、慧に潰されてしまう。
「いつかは先生に会えるのに……。絶対に瑠を忘れたりしないもん……」
ぼそっと呟き、はあ……と長いため息を吐いた。




