八十五話
クリスマスパーティーから間もなく、慧からカウントダウンパーティーに誘われた。断る理由はなく、一泊するためパジャマなどの着替えを用意した。水無瀬家ではクリスマスツリーは片付いていて、逆に来年の干支グッズが飾られている。
「やっぱりここには何でもあるんだね。すごい」
爽花が褒めると、慧もアリアも苦笑した。
「全然すごくないよ。むしろ爽花の実家の方が住みやすいんだろ?」
「平凡な一戸建てだよ。古いし。階段もぎしぎし音が鳴るくらい」
「パパが、あんなに素敵なお家でおいしいご飯が食べられるのが羨ましいって感動してたわ。私も泊まってみたい」
「アリアさんまで……。そんなことないですよ」
首を横に振ったが二人とも爽花の声が届いていないようだ。もしかしたらお城での生活に飽きて、普通の生活が幸せと願っているのかもしれない。爽花がこのお城で暮らすのを憧れているのと同じだ。
「いつか連れて行ってくれる?」
アリアの柔らかな質問に、すぐに頷いた。
「もちろんです。慧もよかったらお父さんとお母さんに会ってやって」
京花たちの自慢げな顔がありありと想像できた。あの水無瀬さんと知り合いだと友人に話し、優越感に浸る様子は簡単に予想できた。
「さて、これからおせち料理作らなきゃ。お正月に間に合わないわ」
急いでアリアはキッチンに移動し、爽花と慧はリビングに残された。
「去年は誰とカウントダウンしたの? カンナちゃん?」
慧がカンナを覚えていたのは驚きだった。きっとカンナも同じだろう。
「一人だったよ。というか去年は年賀状も書かなかったし、初詣も行かなかったよ」
「そうなんだ。もったいなかったね」
「高校生になって最初のお正月だったからね。まあしょうがないよ」
嫌な記憶は早めに忘れた方がいい。終わってしまった過去は変えられない。いちいち悩んで悔しがっても未来に進むしかできない。瑠が教えてくれたことだ。
「ねえ、慧は忘れたい記憶ってある?」
無意識に口から言葉が漏れていた。慧は目を丸くして聞き返した。
「忘れたい記憶? どういう意味?」
「そのままだよ。二度と起きてほしくない出来事とか、悲しい目に遭ったとか」
「二度と起きてほしくない出来事かあ……。うーん……」
爽花をたくさん傷つけたことは忘れたい記憶ではないらしい。もしくは、もっと最悪な出来事があったのか。
「消えてなくなりたい地獄とかは?」
「地獄?」
「そう。もうこの世から消えちゃいたい酷い地獄。奈落の底に堕とされるみたいな」
腕を組んで慧は目を閉じた。質問したのはこちらなのに、爽花も地獄のイメージがあやふやだった。
「消えるって……。死ぬってことだよね?」
「うん。死ぬのって、かなりの覚悟がいるよね」
死んだらもう元には戻らない。大事な家族とも友人とも恋人ともお別れだ。綺麗な絵に癒されたり、おいしい料理に感激したりも全て不可能となる。だが生き物はみんな必ず死が待っている。爽花も慧も瑠もカンナもアリアも京花も死を迎える。ただし、いつ死ぬかはわからない。どういった原因で死ぬのかも決まっていない。
「俺は……ないな。地獄なんか。死ぬなんて寂しすぎるじゃないか」
「だよね……。あたしもずっと長く生きていたいよ。離れ離れで独りぼっちなんて辛いもん」
「爽花、せっかく新しい年の始まりなんだから、もっと明るいおしゃべりしようよ。またもったいない正月になっちゃうよ」
慧の言う通りだと反省した。まだ元気で問題なく生きていけるのだから、今を楽しむ方が賢い。
「ごめんね。あっ、もうちょっとでカウントダウンだよ」
テレビではすでに「新年まであと何分」と表示されている。アリアもやって来て、三人で「十、九、八」とどきどきしながら数えた。やがて「ハッピーニューイヤー」という文字が画面上に輝いた。
「明けましておめでとう。今年もよろしくね」
慧がぎゅっと手を握り締めてきた。爽花も大きく頷き即答した。
「こちらこそよろしく。アリアさんも」
ふとアリアの方に視線を向けると姿が消えていた。不思議な気持ちでいると、キッチンから声が飛んできた。
「おせち料理できたわよ。こっちに来なさい」
立ち上がりダイニングに行くと、相変わらずおいしそうな料理がテーブルに並べられていた。やはりアリアは天才だと確信した。椅子に座り「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。そうして料理を口に運びながら「今年は絶対にいい年になる」と心が弾んだ。
眠る前に、慧に部屋に来るよう言われた。まさか、とぎくりとしたが、ただの相談らしい。ベッドに座っている慧のとなりに並んだ。
「なあに? 相談って」
「相談っていうかさ、爽花は志望校決まってるのかなって」
「志望校?」
「大学の話。まだ先だけど、早めに決めた方がいいよ。遅すぎたら大変だよ」
よくよく考えたら今年は高校三年生で受験生だ。慧が話さなかったら完璧に忘れたままだった。
「決めてないよ。どうしよう。あたし馬鹿だから合格できるかな」
「合格じゃなくてまずは大学を探さなくちゃ。曖昧に選んだら失敗するよ。とは言っても、俺も実はまだ見つけてないんだけど」
苦笑する慧を見て、爽花は冷や汗を流した。嫌な予感がした。
「外国に行ったりしないよね?」
「えっ? 外国?」
「例えばフランスとか。フランスの大学に受験するとか、あたし嫌だよ」
わがままだが距離を遠くしたくない。もちろん瑠とも一緒にいたい。そばにいて、いつでも触れ合えるところに立っていてほしい。
「平気だよ。外国には行かないし、日本人は日本に住まなきゃって母さんも考えてるし、心配しないで」
「ならいいけど……」
ほっと安心して額の汗を拭った。
「とりあえず志望校はまだ決められない。馬鹿なあたしが入学する大学があるかわからないし」
「困ったら俺も手伝うよ。一緒に頑張ろう」
真摯な眼差しで慧が男らしく見えた。恋をすると人は美しくなるというのは本当で、出会ったばかりの姿とは比べ物にならないほど魅力が増していた。
「ありがとう。慧のおかげであたしはものすごく」
幸せになれるよ、と伝えようとしたが口を閉じてしまった。慧は爽花を愛してくれるし可愛がってくれる。その代わり不機嫌にさせないように気を遣わなくてはいけない。演技をしてでも、慧の顔に泥を塗らないように立派に振る舞うという決まりがある。それは爽花にとってかなりの重労働でストレスが溜まる。メイクもせず素の自分でいられるのは、余計な話をせず感情の起伏がほとんどないダンマリな性格の瑠だ。瑠になら怒鳴ったり愚痴ったり好き勝手な行動ができるが、慧にはそんなことはできない。もししてしまったらどんな仕返しが飛んでくるか。
「爽花?」
名前を呼ばれて我に返った。慌てて作り笑いをし、ぎこちない答えをした。
「ごめん。ちょっとぼうっとしちゃった。じゃあ相談は終わりでいい?」
「いいよ。引き止めちゃって俺もごめん」
「お休み」
そっと呟き、慧からの返事を待たずに素早く部屋から出た。




