八十二話
慧は休み続ける。出席日数が足りなくなると心配だったが、爽花に合わせる顔がないのだろう。アトリエのドアを開けると、瑠は椅子に座ってあるものを持っていた。
「あっ、今日は」
来てたんだね、と言う前に、はっと驚いた。なぜか油彩絵具をライターで炙っている。机の上にはペンチまで置いてあった。
「ちょっと何してるの? 火事起きちゃうよ」
「俺はお前みたいにドジじゃないから、火事は起きないぞ」
「じゃあどうしてライターなんか使ってるの? まさかキャンバスを燃やすの?」
絵画には全く関係のないものだ。ペンチだって必要ない。瑠は静かに即答した。
「燃やすわけないだろ。油彩絵具は放っておくと蓋が固まって動かなくなるんだ。だからこうやってライターで固まった部分を溶かしたり、ペンチで掴んで回したりするんだよ」
「……へえ……。そうなの……」
油彩は使わない時でもかなり厄介な画材のようだ。そんなに大変な思いをして、瑠は絵を描き続けている。先生に褒められたくて頑張って練習し、現在も努力している。ふと「放っておく」という言葉が胸に響いた。周りに放っておかれたから瑠の心は固まった。がちがちに固まった心の扉はライターで炙ってもペンチで掴んで回しても動かせない。爽花と同じく瑠も油彩絵具に似ている。
「で、用は?」
瑠に聞かれ我に返った。スケッチブックを鞄から出して上目遣いで頼んだ。
「花のスケッチしてみたいの。落書きでも構わないから教えて」
本当はもっと違う質問をしたかったが、きっと瑠は帰れと突き放すだろう。スケッチについてなら返事をしてくれる。
「まあ、そろそろスケッチに進んでもいいかもしれないな。どんな花が描きたいんだ?」
「薔薇が描きたい」
「薔薇?」
「そう。瑠の特技でしょ?」
「いや、薔薇は難しすぎるだろ。まだ簡単な花じゃないと、途中で壁に突き当たってどうしようもなくなるぞ」
確かに薔薇は形が複雑だし、プロでも苦労しそうだ。焦っても仕方がない。
「早く綺麗な薔薇描きたいのにな……」
「だったら文句言わずに努力するしかないぞ」
瑠は厳しい性格だったと忘れていた。慧のように甘えさせてくれない。爽花の方からお願いしたのだから、不満を言うのは失礼だ。最初から上手い人なんていない。瑠も有名な画家も、ゼロからスタートしたのだと諦めた。
「いつかは描けるよね? 才能がなくても」
「才能なんてあてにならねえよ。上達するもしないもその人次第だ。俺だって先生に会う前は落書きもしなかったんだからな」
爽花の胸の中にめらめらとやる気が沸き始めた。もし上手くなって薔薇の絵を描いたら、瑠は褒めてくれるだろうか。よく頑張ったと言ってくれるだろうか。
「そっか。そうだよね。励ましてくれてありがとう」
別に励ましの言葉ではなかったが、爽花は癒された。
こうしてそばにいるだけでストレスが消えるのは不思議だ。慧からは感じられない特別な力だ。瑠を失いたくないという想いがまた強くなった。瑠も慧も手にしたいというのは自分勝手でわがままだが、ずっと曖昧な関係でやり過ごすしか方法はない。はっきりしない状態なら、悪循環は生まれずに済む。いろいろとデッサンやスケッチの話をしてもらい、外が暗くなったのでそっと立ち上がった。すると瑠は囁いた。
「俺は独りで絵を描いてないっていう意味、わかっただろ」
「えっ」
「このアトリエにいるのは、俺と、あとは?」
突然質問されて戸惑った。しばらくしてゆっくりと呟いた。
「あたし?」
「そう。確かに絵を描いてるのは俺だけ。でもアトリエにもう一人、うるさくてしつこくてドジなのに賢いとか偉そうな奴がいるんだよ」
酷い言われようなのに嬉しさと喜びが溢れた。ほんの少し距離が縮まったと自然に微笑んだ。
「そういう意味だったんだね。全然思いつかなかったよ。お化けはいないんだね」
「というか、お化けが怖いのによく一人暮らしなんてしてるな」
呆れられてしまったが、嫌な気持ちにはならなかった。
「本当はお父さんとお母さんに会いたくて寂しいよ。実家に帰ってアパートに戻りたくないっていつも思ってるの。だけど大人になっても弱くならないために慣れておかなくちゃ」
そして、辛くて空しくて涙が溢れそうな時、支えてくれる愛しい誰かを探さなくてはいけない。特別な誰かに愛されて、孤独な道を歩まない準備が必要なのだ。




