八十話
丸は上手くなってもまだ花は描けないのがもどかしかった。画材が鉛筆なのも不満だ。
「ねえ、早く色塗りたいよ」
「いや、まだ全然基本がなってない。スケッチだってしてないし、焦っても意味ねえだろ」
「だけど鉛筆で丸描くだけじゃ物足りないもん。ちょっとくらい筆使わせてよ」
ぶすっとわがままを言うと、厳しい表情で瑠は腕を組んだ。
「俺も最初は鉛筆で丸だけだったんだ。しっかり勉強したから、こうして一人でも描けるようになったんだ。道具の使い方とかもきちんと覚えなきゃいけない」
充分油彩の難しさは身に染みている。油彩絵具は普通の洗濯じゃ落ちない。だから爽花も普通の口説きや告白では恋に落ちない。その特別な誰かはどこにいるのか。探して恋人同士にならないと後に泣く羽目になる。そんな人生を幸せとはいえない。けれど世界中には男子が砂の数ほど存在していて、爽花が運命の人に出会えるかは不明だ。逆に瑠はどうなのかと疑問が沸いた。瑠の運命の人もきっといる。絵も上手で品がよく、美しい女性だろう。独りぼっちの瑠を柔らかく包み、ずっと離れないと誓う性格だ。
「瑠は、好きな子が現れたらどうするの?」
口から質問が漏れた。瑠は目を丸くした。
「はっ?」
「だから、本当にこの子と愛し合いたいって思ったら、結婚とかするの?」
瑠は曖昧に首を傾げて、ぶっきらぼうに答えた。
「さあな。結婚したからって必ず幸せになれるとは限らないぞ。飽きられたり捨てられたりしたら嫌だって話したのはお前だろ」
だが実際に結婚し出産までした京花やアリアやマリナには幸せでかけがえのないものと聞かされた。イチジクには神様からの贈り物と教えられた。そのせいで爽花の幼い頃の決意がだんだん弱まり揺れている。
「俺には好きな女なんか現れねえよ。俺と仲良くなりたいって女はいない」
「そうかな? 瑠にも運命の人はいるでしょ」
「いたとしても出会わねえよ。俺がここで絵を描いてたら」
確かに瑠が孤独を選ぶなら運命の人はやって来ない。狭いアトリエにわざわざ入ろうとする人はいない。
「そっか。まあ、未来はわからないもんね」
爽花がため息を吐くと、瑠は真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「……ただ、そいつがどんなに突き放しても無視しても俺に構ってくるなら、考えは変わるかもしれねえけどな」
「じゃあ……恋人同士になるの?」
「そうだ。本気でそいつと一緒になりたいって決めたら花束を贈る」
「花束?」
なぜ花束なのか。ラブレターや告白ではなく花束を贈るのは不思議だ。
「言葉だと消えるけど、花束にすれば思い出は残る。先生が、どうか忘れないでくれって花束のスケッチブックを渡してくれただろ。俺もそういう方法で伝えるって決めてる」
「へえ……。ロマンチックだね。でも瑠は花束作れるの?」
「作れないから代わりに花の絵を贈る。どんな形でもいいだろ」
一瞬、瑠に絵をプレゼントされたことが蘇った。睡眠も潰して描いた絵だ。現在はへこんでクローゼットの奥に立てかけてあるだけだが、瑠はわざわざアパートの壁のサイズまで測りに来た。あれはどういった意味でプレゼントしたのか。
「……そうなんだ。……いつか好きな女の子が現れるといいね。瑠が素敵な人とラブラブだったらあたしも嬉しいよ……」
嬉しいどころか悔しさでいっぱいだ。常にそばにいて瑠の作品を褒めたり助けたり護ろうとしたのは自分なのに横取りされたと妬みで溢れかえる。汚い心はどんなに取り繕っても隠せない。いずれ慧にも届き、まだ瑠を諦めていないのかと怒られる。実は瑠に運命の人が現れてほしくなかった。ずっとアトリエで二人きりで過ごしていたい。ぼうっとしていると瑠が頬に触れてきた。
「お前、頑丈にできてるとか言ってたけど、全然頑丈じゃないぞ」
「あ……当たり前でしょ。頑丈なのは心で肌は固くないよ。ロボットみたいじゃない」
「ロボットか。いい例えだな」
「馬鹿にしないでよ。あたしは人間なの」
言い返すと、瑠はさっと手を引っ込めた。次はこちらの番だと直感し、爽花も瑠の左手に触れた。
「あたしもこの左手がくっ付いてたら、今頃有名な画家になってたのに。イチジクさんも言ってたけど、瑠ってものの捉え方が違うんだよね。相当努力したんだね」
瑠がどこでどうやって暮らしてきたのか知りたい。慧は別にいいけれど、瑠は謎が多いため気になってしょうがない。もし慧がいなかったらという悪い想いが生まれた。慧がいなければ、堂々と並んで歩いても疑われずに済むのに。優しい慧を悪者扱いするつもりはないが、どうしても考えてしまう。初めて出会ったのが慧ではなく瑠だったらまだマシだったかもしれない。瑠がとなりに立っていたら、絶対に爽花に興味など持たなかったはずだ。瑠は爽花の癒しであり生きていくのに重要な存在なのだ。慧の前では女の子らしく振る舞い立派にならないといけないが、瑠と会う時は化粧さえしていない。素のままでいられるからとても楽だ。
「……あたしも、好きな男の子に花束贈るよ。愛しいあなたに花束をプレゼント。すごくロマンチックだ」
瑠も小さく頷き、触れていた左手をゆっくりと放した。
「瑠はほしいものはないの? 誰かに取られたくない大切な宝物。これさえあれば生きていける生きがいだよ」
「生きがい? ……例えば?」
聞き返されて戸惑ったが、答えはすぐに見つかった。
「家族とか友だちとか、死ぬまで身の周りにあってほしいっていう……。あたしは家族が生きがい。お父さんもお母さんも優しくて声を聞くだけでほっとするの。いつも護って助けてくれるし。帰る家だってあるじゃない」
「だけど親とはいつか別れるぞ。死ぬまで一緒にはいられない」
「だから、別れる前にもう一つ生きがいを探さなくちゃいけないの。独りで泣かないように今のうちに手に入れなきゃ。あたしを愛してくれる誰かを」
すかさず話すと、瑠は驚いた表情になった。だいぶ賢くなったんだなという意味なのだろう。
「生きがいか。そんな言葉初めてだな。だけど俺の生きがいなんて知ってどうするんだよ。お前が俺の人生を変えてくれるのか?」
「そういうんじゃなくて」
「また慧と正反対だねで終わりだろ。無駄なおしゃべりはしたくないね」
距離を縮めようと焦ってしまった。穏やかな口調だったのに冷たく凍り付いてぎくりとした。
「無駄ではないよ。人生って、生きがいがあるから幸せになれるんだよ」
ふん、と視線を逸らし、瑠は面倒くさげに呟いた。
「じゃあ教えてやるよ。俺には生きがいなんてない。宝物もほしいものも何もない。このままの生活で充分幸せ。はい以上」
「ずっと絵だけ描いて生きていくの? そんな人生で満足なの?」
抜けそうな足の力を強くして掠れた声で聞いた。瑠は答えるのも不快なのか、勢いよく立ち上がって歩き出した。
「待って。行かないでよ」
慌てて腕を掴んだが大きく振り払われてしまい、瑠はさっさとドアの方に移動した。
「瑠、お願いだから生きがいを探して。そうしないと」
遮るようにバタンッとドアが閉じられた。追いかける気力はなく、へなへなと座り込んだ。ちょっとくらい心の中を覗かせてくれたっていいじゃないか。がちがちになった心の扉は、やはり簡単には開かないのか。距離が近づいたと喜んでいたのは爽花だけだったようだ。ぽろりと涙が溢れ床に落ちた。どうすればこの問題が解けるのだろうか。




