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七十九話

 瑠の油彩教室が始まった。基本を学ばないといけないので、練習練習また練習だ。いきなり花は無理なため、瑠からは「丸を描け」と言われた。

「丸や線は大事だからな。大きくても小さくても構わないから、鉛筆で適当に描いてみろよ」

「丸か……。それくらいなら大丈夫かな」

 スケッチブックに鉛筆で丁寧に丸を描いた。なるべく違う形にしようと工夫した。ページいっぱいに埋まると瑠に渡した。

「……うまくねえな」

「しょうがないじゃん。画力ゼロなんだもん」

 むっとしたが瑠は聞こえないフリをした。

「ねえ、瑠って、何歳から勉強したの?」

 ふと疑惑が沸いた。抑揚のない口調で瑠は即答した。

「どうしてそんなくだらないことが知りたいんだ」

「くだらなくないよ。ここまで綺麗な絵を描くために、どんな努力を重ねてきたのか教えてほしいの」

 瑠は視線を逸らし、ぼそっと呟いた。

「昔の出来事なんか忘れたよ」

「忘れちゃったの? うーん……。じゃあ五歳とか六歳からかなあ?」

「だから覚えてないって」

 はっきりと答えてくれないのがもどかしい。想像だが、十年は続けてきただろう。

「あたしは、いつになったらうまくなるのかな? あたしが油絵を一人で描ける日が来るのかな」

「努力次第だな。油彩は結構難しいから」

 奥が深すぎて全てこなせるか問題だらけだ。道具だって高いし売っている店も遠く、爽花には合わない趣味だ。

「一〇〇年かかったらどうしよう」

 独り言を漏らして俯くと、厳しい瑠の言葉が降りかかってきた。

「始める前に諦めたらだめだろ。今は鉛筆だし服を汚す心配もないし」

 油彩絵具は服に付くと普通の洗濯では落ちないので、特別な液が必要だ。それと同じで、爽花も特別な誰かとしか恋に落ちない。

「瑠は服を汚したりした?」

 質問するのではなく手を動かせと冷たく睨まれると怖くなったが、あっさりと返事をしてくれた。

「そりゃあ一枚や二枚は。ただ俺の服はいつも古着とか捨てるゴミとかだったから文句は言われなかったけど」

「古着? ゴミ?」

 意外で目を丸くした。爽花の想いが届いたのか、瑠は続けた。

「子供の頃は、あいつの方が体がでかかったんだ。衣装持ちだったし、ほとんどあいつの古着しか着なかった。靴も鞄も、あいつが使わなくなったやつを俺が代わりに使ってたな」

「新しいもの買ってくれなかったの? 慧のお古じゃなくて、自分用がほしいって言わなかったの?」

 なぜ使い古ししか与えてもらえなかったのか。慧が飽きて捨てようとしたゴミが自分の私物などあんまりだ。

「欲しがってもどうせ買ってくれやしないってわかってたから、余計なおねだりはやめたんだ。俺は、欲しいものはあるかって聞かれたことがないんだよ。汚れてても古くても瑠は不満なしだってな。要するにどうでもいい存在だって決めつけられてきたんだよ」

 胸がひんやりと冷たくなった。慧ばっかり愛されて綺麗な服を身に付けていたのに、瑠はおまけみたいじゃないか。やはり瑠の人生は空し過ぎる。愛が足りず、孤独なままひたすら絵だけ描く。慧は瑠を変な奴だと感じているけれど、変なのは瑠の周りにいる人間たちだ。独りぼっちで可哀想だとか、支えになってあげたいとか思わないのはおかしい。瑠はどうでもいい存在じゃない。放っておいてはいけない。瑠が寂しい人生を歩むなんて信じたくない。

 黙っていると、じっと瑠が覗き込むように見つめてきた。瑠の方から距離を縮めるのは初めてだ。

「うわわっ……。な、なに?」

「いや、また泣いてるんじゃないかなって」

「あ、あたしそんなに泣き虫じゃないよ。ドジだけど賢いドジだし、頑丈にできてるよ」

「そうか。それならいいけど」

 なぜか照れて頬が赤くなってしまう。こうして心配されているというのが恥ずかしい。泣いているんじゃないかとは、逆に考えると爽花の泣き顔を見たくないという意味だ。慧に「好きだ」と告げられて抱き締められるより、ずっとどきどきする。それを隠すためにまたスケッチブックに丸を描き始めた。繰り返していると先ほどよりは形が安定し、さらに楕円なども加えてみる。ただの丸も割とハマるとやる気が芽生えた。 突然、瑠が爽花の左手に自分の右手を重ねてきた。はっと顔を上げ、どきどきしながら瑠に視線を向けた。

「な……なに……?」

「いや別に。何でもねえよ」

 ぶっきらぼうに答えて、拗ねたような表情で手を引っ込めた。爽花の心の中では戸惑いと期待が同じくらい膨らんでいた。ほんの少し瑠が爽花を意識している気がする。特別な女の子だと感じていると緊張する。

「もう触らないでよ。集中してるんだから」

 言ってから丸の続きを再開した。けれど三分も経たずに次は髪にそっと触れた。勢いよく立ち上がり、大声で怒鳴った。

「触らないでって言ったでしょ! 邪魔しないで!」

 きっと今まで同い年の女子と過ごした経験がないため、興味が沸いてしまうのかもしれない。いやらしい意味ではなく、ただ実際に確かめたいのだ。まだ高校生の男子なのだから、そういう気持ちにもなる。

「……わかったよ。じゃあもう帰る」

 悔し気な呟きが聞こえて驚いた。慌てて瑠の腕を掴んだ。

「待ってよ。帰らないで」

「だけど邪魔なんだろ」

「邪魔じゃないよ。本当は邪魔なんて考えてないよ。置いていかないで」

 必死に伝えると、瑠はゆっくりと椅子に座り直した。爽花はため息を吐き、余計な発言は止めると決めた。もしかしたら瑠はアリアに抱き締めてもらっていないのかもしれない。たった一人の母親より血も繋がっていない先生を信じているのはなぜか。

「あいつには文句なしで大人しくしてるのに、俺は対象外なんだな」

 そっと囁きが聞こえて、どくんどくんと鼓動が速くなった。もしかして慧を妬んでいるのか。瑠に抱き締められたら、爽花の頭は爆発しそうだ。



 外が暗くなり、二人は道具を片付けた。スケッチブックは爽花の鞄にしまい、アパートでも練習を続けると告げた。瑠と別れて、心が凍っているのをはっきりと感じた。着る服も与えられず慧のおまけにされてきた事実がショックだった。瑠は何も悪くないし変な人間でもない。おかしいのは周りにいる人たちだ。瑠をほったらかしにして可哀想だと思わないのか。もっと瑠の声を聞いて寄り添ってあげようとしないのか。とにかくこのまま孤独でいてほしくない。いつも同じ日の繰り返しでは何のために生きているのかわからない。非力な爽花にできることは少ないが、ずっととなりにいるのは可能だ。ダンマリでニコリともしないけれど絵を褒めてあげたり応援する。瑠のがちがちに固まった心の扉を開くのだ。

 また失敗しないよう、スケッチブックは机の中に入れた。アパートに来た慧にびりびりに破られたらおしまいだ。へこんだキャンバスが爽花の胸を重くさせる。慧の嫉妬深い性格が残念でならない。秘密を作ったり嘘をついたりしなければ詮索魔には豹変しないのだから、こうして傷つけあう原因は爽花にある。慧の一番の魅力は優しく穏やかな態度だ。頬を叩いてしまって謝りたかったが、水無瀬の実家には行きたくないし、慧が学校にやって来るまでは不安定な状態のままだ。

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