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七十八話

 しばらくは何もなく、普通の日々を送った。毎日薔薇に見惚れて、テレビさえつけなかった。それよりも絵を眺める方がずっと楽しいし、とにかく癒される。わざわざアトリエに行かなくても心がすっきりするのは嬉しい。休日もぶらぶらと散歩したりせずに、部屋に引きこもることが多くなった。だが、幸せは長く続くものではなかった。

 ある土曜日に慧から「久しぶりに喫茶店でお茶を飲まないか」と誘われた。行ってもいいが、生憎の雨でどんよりと曇っているので外出はうんざりした。

「アパートに来てよ。安いけど紅茶ごちそうするよ」

「いいの? 迷惑じゃない?」

「家族もいないし平気だよ。待ってるから」

「わかった。すぐ行くよ」

 短く答えて、慧は電話を切った。爽花がお茶の用意をしていると、インターホンが鳴った。急いでドアを開けると、少し服が濡れている慧が立っていた。

「わがまま言ってごめんね。喫茶店は天気のいい日にしたいと思って」

「構わないよ。爽花のアパート好きなんだ。居心地がいいし、また泊まりたいなあ」

「あれは泊まるっていうか、疲れて眠っちゃって朝になったってだけでしょ」

「まあね。父さんが、爽花の実家がすごく暖かくて、またご飯を食べたいって感動してたよ。俺も爽花の両親に会って……」

 突然、慧の言葉が途切れた。ある一点を見つめて体を固くしている。

「どうしたの? いきなり黙って……」

 慧の視線の先にあるものに気づき、ぎくりとした。瑠の描いた絵が壁に飾られていた。

「……ねえ、あれって、瑠が描いた絵だよね……」

 声が掠れている。冷や汗が噴き出し、うまい嘘は作れなかった。

「あ……あたしが、綺麗だからちょうだいってお願いしたの。何度もしつこくつきまとって、面倒くさいからやるよってね。無理矢理奪い取ったんだ」

「でも額付きで渡すかな? まるでプレゼントしたって感じだけど」

 やばい、と全身から血の気が引いた。案の定慧は疑う表情に変わって睨みつけてきた。

「隠しごとしないって約束したのに、また忘れたのか?」

「違うよ。忘れてない……」

 勢いよく慧は立ち上がり、絵を外した。そしてそのまま床に叩きつけた。額は砕け散り、さらにキャンバスを踏みつける。

「やめて。やめてよ」

「うるさいな。こんなもの飾ってたら呪われるぞ」

 ばしっと慧の頬をはたいた。鋭く睨んで大声で怒鳴った。

「出てって! 慧の顔なんか見たくない! さっさと出てってよ!」

 怒っているのにぼろぼろと涙が流れる。慧は項垂れて逃げるように走り去った。

 残された爽花は崩れるように座り、震えながら割れたガラスをゴミ箱に捨てた。途中で指が切れて血が出ても構わずに続けた。キャンバスは強く踏んだせいでへこんでしまった。粉々になったのは額だけではなく爽花の心もだった。心はゴミ箱に捨てられないため、いつまでも記憶にこびりついて離れない。

「慧の馬鹿……。だから瑠に負けるんだよ……。瑠は嫉妬してあたしの大切なものを壊したりしないもん」

 聞こえるわけがないが小声で責めた。せっかくのかけがえのない宝物が無残な状態になってしまったのだから、いくら慧でも恨みの感情は生まれる。奈落の底に突き落とされて、這い上がれなくなった感じがした。キャンバスを抱き締めて号泣するしか爽花にはできなかった。玄関に行くと、慧の傘が置きっぱなしにされていた。傘もささずに雨に濡れながら逃げたのだ。こんなもの、と怒りが増してゴミ箱に投げ捨てた。翌日も一日中泣いて、無駄な時間が過ぎていった。

 学校は休みたかったが、勉強に遅れたくないと頑張って登校した。予想していた通り慧はいなかった。爽花と同じく慧も心が壊れているはずだ。一番は爽花に殴られたことだろう。愛している相手との喧嘩は、かなりショックを受ける。放課後にアトリエに向かい、椅子に座って絵画に励んでいる瑠に声をかけた。

「ねえ、あの……。瑠が描いてくれた絵なんだけど」

「あいつにボロボロにされたんだろ」

 すでに話を知っていたらしい。爽花も頷いて返した。

「うん。一昨日アパートに遊びに来て、瑠の絵が飾ってあってカッとしたの。床に叩きつけて額は粉々だし、キャンバスはへっこんじゃった」

 涙が零れそうになったが耐えた。代わりに深く俯いてため息を吐いた。

「外しておけばよかった。うっかりしてたよ。またドジしちゃった」

「悪いのは全部あっちだから、お前は落ち込まなくていいぞ」

 ふう、と瑠は立ち上がり、爽花に視線を移した。

「新しく同じ絵を描くのは申し訳ないが無理だ。あの薔薇の絵は諦めてくれ」

「わかってる。瑠でもそんな魔法みたいな力はないもんね」

 だから余計悲しくて空しいのだ。睡眠まで潰してようやく完成した絵が一瞬で消えたなど、信じたくなかった。また邪魔され傷つけられた。

「次は自分で描いてみたらどうだ?」

 目が点になった。瑠の頭がおかしくなったのかと怖くなった。

「あたしが描けるわけないでしょ? 落書きだって描いた経験ないのに」

「最初は誰だって描けないのは当たり前だ。俺だって昔は先生がいないと筆も動かせなかったんだ」

 机に置いていたスケッチブックを爽花に渡した。イチジクの庭でスケッチした花が載っている。

「まずは基本から学ばないといけないからな。道は長いぞ。鉛筆でいろいろな練習をするんだ。デッサンだよ」

「デッサンって……。あたしが絵を描けたら、この世の中の人たちみんな画家になってるよ」

「やってみたら案外うまかったりするかもしれないだろ。道具は貸してやる。とりあえず鉛筆とスケッチブックがあれば問題ないな」

 そういえば以前絵を教えてほしいと頼んだのを思い出した。もしかしたら忘れずに覚えていたのかもしれない。

「このスケッチブック、もらっていいの?」

「手本がないとどうしようもないし、俺には必要ないからやるよ」

 いつの間にか弱気が強気に変わっていた。デッサンという意味も知らないけれど、やる気がめらめらと沸いた。

「ありがとう。自信ないけど頑張る。瑠みたいに綺麗な絵を描きたい」

 毎日こつこつと練習していたら、きっと上達はする。努力をしなかったらいつまで経っても下手だと瑠は言っていた。スケッチブックを鞄にしまい、「ありがとう」ともう一度感謝を告げた。



 アパートに帰り、へこんだキャンバスをクローゼットの奥に押し込んだ。痛々しい想いは消し、新しい望みを叶えると決めた。椅子に座り、スケッチブックの花を細かい箇所まで見つめた。

 しばらくして携帯が鳴った。慧からだ。無視したかったが素直に出た。

「こんな時間にごめんね。一昨日は本当に悪かったよ。カッとして馬鹿みたいだった。どうやってお詫びすればいいか」

「お詫びなんかいらないよ。ただ妄想して暴れるのは止めて」

 ぐさりと槍が刺さったのか、慧は震えた口調で「わかった」と囁いた。

「今日、学校休んでたよね。調子が良くないの?」

「うん……。心配させてごめん」

「そんなに心配してないしいつかは治るでしょ。まあ、お大事に」

 恐ろしく冷たい一言に、爽花自身も驚いた。慧はまだ話したかったようだが、一方的に電話を切ってしまった。

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