七十七話
「爽花、起きてる?」
夜遅くに慧が電話をかけてきた。最も会話をしたくない相手だが失礼な態度をとった反省もあって、仕方なく答えた。
「うん……」
「さっき、ごめんな。父さんも母さんもびっくりしてたよ。爽花が大声で叫ぶなんて」
「あたしの方こそごめん。自分勝手なことしちゃった。アリアさんたちカンカンでしょ」
「怒ってはいないよ。嫌な想いさせて謝りたくてしょうがないって言ってる。だからまた」
「もうお家には行きたくない」
固い口調ではっきりと告げた。
「えっ?」
「慧と瑠が一緒にいる場所にいたくないの。もし会って話すなら、喫茶店とかあたしのアパートとかがいい」
爽花の心が届いたのか、慧は弱弱しい声に変わった。
「そう……だよな。嫌な思い出があるところでしゃべりたくないもんな。父さんと母さんにも伝えるよ。ごめんな」
だんだん申し訳なくなってきた。わがままな爽花の願いにあっさりと頷いてくれるのは愛している証拠だ。
「じゃあ……おやすみ」
特に用がなかったのか慧は呟いた。「おやすみ」と爽花も言い電話は切れた。壁の時計は十一時を指している。夏休みなのでいくらでも夜更かししていいため、ベッドに横たわり天井を眺めた。
潤一は瑠は悪くないと話した。だから責めるのはよくないと慧を窘めていた。瑠の性格が歪んだのは他の人間が存在しているからだ。爽花は名前も顔も知らない謎の人物だろう。幼い頃は四人とも普通の生活を送ってきたに違いない。瑠も両親に愛され、笑顔も作れたはずだ。では歪ませたのは油絵の先生かとも考えられるが、瑠は命の恩人で最も信じているので先生は悪者ではない。あと頭に浮かぶのは誰か。
「もういいや。しっかり休まなくちゃ」
諦めたくないが、閃かないのではどうしようもない。クーラーと扇風機でだいぶ涼しくなった部屋で眠った。
その日から慧から電話はかかってこなかった。外を歩いてもなぜか出会わないし、全く音沙汰なしだ。もちろん爽花もいちいち質問する気にもなれず、そのまま時が過ぎていった。夏休みがあと少しという日に、ようやくメールが送られてきた。
『父さん、仕事に戻るって。また日本に帰った時は、仲良くおしゃべりしたいって』
はあ、とため息を吐いて、『わかった。けど喫茶店でね』と短く返信しておいた。
光陰矢の如しで、自由な休みは終わった。学校では肌が黒くなったクラスメイトや、宿題が間に合わなくて友人に写させてもらっているクラスメイトもいる。爽花は夏休み前とほぼ一緒の姿で、久しぶりの教室をぼんやりと眺めた。カンナは旅行に行ったらしく、かなり日焼けしている。
「お姉ちゃんとアンナちゃんと沖縄に遊びに行ったんだ。初めての沖縄、めちゃくちゃ楽しかったよ」
「沖縄かあ……。あたしも行ってみたい」
そういえば爽花は飛行機に乗った経験がない。いつも近場で、移動も車や電車だけだ。空港の場所さえ知らない。瑠と慧はフランスにもアメリカにも住んでいたし、パスポートも持っている。何度も乗っているだろう。パスポートは憧れるが、欲しいかと聞かれたら必要ないと考えている。日本語しか話せないし、京花も俊彦もパスポートを持っていないので使う機会がない。
「今度は爽花も連れてこようねってお姉ちゃんと話してるんだ。来年は受験で忙しいけど、高校卒業したら遊びに行こうよ。アンナちゃんも大きくなってるし」
「でも、迷惑じゃない?」
「全然。むしろ爽花が参加してくれたら、もっと素敵な旅行になるよ」
とても嬉しくて「ありがとう」と微笑んだ。参加してくれたら素敵な旅行になる。つまり爽花がいると雰囲気が明るくなるという意味だ。逆に瑠は雰囲気が悪くなると追い出される。あっちへ行け、邪魔をするな。冷たい言葉を浴びせられる痛みが、慧たちにはわからないのか。
「いつか行こうね」
強く言い切って、カンナは自分の教室に戻った。
放課後アトリエのドアを開けると、瑠はいなかった。爽花にしつこくつきまとわれたくないからかもしれない。やりすぎたと後悔し俯いた。瑠の独りぼっちに耐えきれなくて、つい体が動いてしまった。アリアも潤一も怒っていないらしいが、以前のようには付き合えない。
ふと、アトリエにはもう一人誰かがいると瑠が話したことを思い出した。どうやらお化けがここに潜んでいるようで、ぎくりとして体が凍った。爽花は高校生になってもお化けを怖がっているし、絶対にいると信じている。
「は……早く帰らなきゃ……」
呟くと背中からガタンっという音が鳴って、飛び上がりそうになった。恐る恐る後ろを向くと、瑠が大きな紙袋を持って立っていた。
「驚かさないでよ! お化けかと思っちゃったよ」
「お化けなんかいるわけないだろ。しかもアトリエに」
「だけど、アトリエにはもう一人誰かがいるって言ってたじゃない」
「そうだよ。アトリエには俺以外にももう一人いるんだよ。今だって俺の近くにいるぞ」
「やめてよ。そういうのあたし苦手なの。夜トイレ行けなくなっちゃう」
騒ぐ爽花を呆れた表情で見つめて、瑠は呟いた。
「お前って、ドジというか……とろいよな。普通だったらすでに気付いてるはずだけど」
「あたしには霊感なんてないのよ」
むっと言い返すと、爽花を無視して瑠は紙袋を床に置いた。
「これ、何?」
「さあな。何だと思う? 当ててみろよ」
瑠がからかった口調で答えたのが意外で少し驚いた。うーむと腕を組み、いろいろと考えを巡らす。
「この大きさなら……キャンバス?」
「そうだ。額付きのな」
手を突っ込み、瑠はキャンバスを取り出した。夏休みに部屋で描いていた作品だ。
「うわあ……。ついに完成したんだね。すごく綺麗。きっと優秀賞が」
「お前にやる」
どきんと胸が高鳴った。幻聴ではないかと耳を疑った。
「あ……あたしにくれるの?」
「夏休み中に完成させたかったんだけど、どこかの誰かが海にいこうだとか誘って来て遅くなっちまったんだよ」
海パーティーに参加してほしいと頼んだ時、瑠はやりたいことがあると断った。どうせロクなことではないと決めつけていたが、それは爽花に渡す絵を描くことだったのだ。感動でぼろっと涙が零れた。心が軽くなって周りが輝いている。
「いいの? あたしなんかがもらっても……」
「いいから描いたんだろ。ちょうどお前のアパートの壁にぴったり収まるサイズにしたからな」
いつだったか忘れたが、瑠がアパートの壁を測りに来た。大きすぎても小さすぎてもかっこ悪くなるのはキャンバスのサイズだったのだ。
「嬉しい。まさか描いてくれるなんて……。額ももらっていいの?」
「どうせ買える金なんか持ってねえだろ」
「うん。ありがとう。本当に……ありがとう」
他にもっと言葉はあるだろうと考えても探せない。最も価値のある、かけがえのない宝物を手にした喜びで、鼓動が速くなっていく。
「あたしのアパートが、この薔薇のおかげですごく綺麗になるよ。さっそく飾るね」
「もうお前のものだから、どうするかは好きにすればいいぞ。飽きたら捨てても構わないし」
「捨てないよ! あたしが瑠の絵を捨てるわけないでしょ! ずっと大事にして、汚したり失くしたりしないように気を付ける」
落として割ったりも注意だ。とにかく自分の命よりも大切に守らなくてはと確信した。たぶん瑠が爽花に絵を渡してくれるチャンスはこれが最初で最後だ。紙袋にしまい、ぎゅっと抱き締めてもう一度「ありがとう」と深く頭を下げた。
アパートの居間に入ると、鞄を放り投げて紙袋からキャンバスを取り出した。ゆっくりと壁にかけると真ん中にちょうど収まって、どこからでも眺められた。うっとりとして、瑠の心の暖かさを感じた。とっつきにくくてダンマリでも、実は瑠にも人間らしい気持ちは存在している。みんな外見で判断するから、美しい薔薇の癒しも受けられず損をしている。
「しかし、瑠って画力があるなあ……。羨ましい……」
ただ一つだけ、絶対に負けない特技が欲しい。潤一が不思議な力を持っていると話していたが、爽花自身は全く意味がわからない。そもそも不思議な力が特技なのかだって不明だ。きっといつか教えてくれる日が来ると期待した。




