七十六話
アパートの中はクーラーも扇風機もかけていなかったせいで蒸し暑くなっていた。効果はないがクーラーをかけ、扇風機も回した。じっとりと汗が服を濡らして不快でいっぱいだ。とりあえず手っ取り早くすっきりできるのはシャワーだと洗面所に移動し、全ての汚れを流した。
家族全員が瑠を無視しているのか。家族が近寄ろうとしなかったら、瑠は孤独になってしまう。独りきりの瑠を可哀想だと感じないのがおかしい。瑠本人はどうでもよくても、爽花が代わりに空しくて寂しくなってしまう。たくさんの人たちに愛し愛されるから幸せな人生を歩めるのに。水無瀬家はお金持ちで立派な家も車もあるし、みんな素敵な姿をしているけれど愛情が足りなかったら美しい家族とは言えない。普通だけれど愛も笑いもあふれる新井家の方が、ずっと暮らしやすく居心地がいい。
しかし父親に出会うとは夢にも思わなかった。あんなに気さくで心優しく笑顔が素敵な男性で驚いた。瑠が微笑んだら潤一とそっくりになる。もちろん、瑠が微笑むことなど想像できないが。
居間に戻ると携帯が鳴った。京花からだった。
「もうアパートに戻っちゃうの?」
「うん。自分勝手でごめんね。お父さんもお母さんも元気だって安心した」
「そう。独りでいるのが寂しくなったら、いつでも帰っていいからね」
「わかった。ありがとう」
短く答えて電話を切った。携帯を見つめながら、そっと呟いた。
「寂しくない時なんか一度もない。毎日寂しくて堪らないよ」
だけど親はずっと生きているわけではない。いつか必ずお別れが来る。そして孤独になる。完全に孤独になった時、親と同じくらい爽花を愛してくれる人を、今のうちに探さなければいけないのだ。
「そんな人、どこにいるんだろう……」
はあ、とため息を吐くと、また携帯が鳴った。今度は慧だ。
「父さんが、爽花とおしゃべりしたいんだって。長く日本にはいられないから早めがいいんだけど、いつ暇かな?」
どうやらアリアと同じく気に入ってもらえたようだ。用事はないためすぐに答えた。
「明日でいいよ。どこでおしゃべりするの?」
「俺の家だよ。母さんがごちそうを振る舞うって。みんなで楽しく食べよう」
そのみんなの中に、絶対に瑠は含まれていないだろう。雰囲気を壊す瑠をどこかに追いやって四人で食事だ。問題が起きないようにあえて瑠の名は伏せておいた。最初から言わなければいい。瑠と仲良くなれるチャンスは無だと諦めた方が賢い。二人きりになれるのだってアトリエだけだし、触れようとするたび邪魔が入るのはすでに知っている。かといって離れ離れになるつもりはなく、こっそりと距離を狭めようと願うことにした。
電話が切れた後、果たしてどんな話をすればいいのか不安になった。慧やアリアが上手くフォローしてくれるとありがたいが、失礼な態度やマナーがなっていなかったら厳しく睨まれる可能性がある。アリアは許してくれたが、潤一は違うかもしれない。とりあえずドジだけは踏まないと心を強くした。
翌朝はセルリアンブルーの空ではなかったが、清々しい晴れになった。品がよさげな格好をして居間の椅子に座っていると、インターホンが鳴った。ドアを開けるとラフな衣装の慧が立っていた。
「お待たせ。遅くなっちゃった」
「いいよ。それよりこの服かっこ悪いかな」
「全然。可愛くてお姫様みたいだよ」
ぼっと頬が赤くなり、ぎゅっと慧の腕を握って歩いた。周りの人からは恋人同士に映るだろう。初めて訪れた時と同じく緊張して立派な屋敷の前に辿り着いた。アリアが玄関で笑って待っていた。純白のエプロンと薄ピンクのドレスがよく合っていておしゃれだ。潤一はソファーに座って難しそうな本を読んでいた。その表情は瑠が絵を描いている表情と一緒だ。爽花に気づき、潤一は本を置いてにっこりと笑った。
「いらっしゃい。わがまま言ってごめんね。どうしても恩返しがしたくて」
「恩返し?」
「お家に泊めてくれたじゃないか。ご飯までごちそうになって、爽花ちゃんにとっても感謝してるんだ」
そして慧とアリアに「お前たちもそうだろ」と同意を求める視線を向けた。
「別に大したことしてないです……。世の中は持ちつ持たれつって言いますし」
「それだけじゃない。爽花ちゃんにはもう一つ感謝してることがあるんだ」
意味がわからず黙るしかなかった。もう一つ感謝していることとは何だろうか。
「父さん、爽花は俺の宝物なんだから、奪おうとか考えてないよね?」
「大丈夫だよ。可愛い女の子を苦しめるなんて嫌だよ。ライバル視するなら瑠の方だよ」
「瑠は爽花とは赤の他人だって、昨日の夜教えただろ。爽花とあいつは全く何の関係もないよ。友人でもクラスメイトでもないんだ」
ぐいっと慧が肩を抱いた。いやに焦っている口調に驚いた。そういえば慧は、爽花が瑠とキスをしたり一糸まとわぬ姿を晒したりしている事実を知らない。バラしたら疑われるし、爽花もずっと秘密にしている。瑠と油絵を失いたくない。
「まあまあ、慌てなくても平気だよ。それにあんまり敵視するのはよくないよ。ああいう性格になったのは瑠が悪いんじゃない。あの子を責めるのはだめだよ」
「えっ?」
潤一の言葉を聞き逃さなかった。瑠は悪くないとはどういう意味か。
「さて、そろそろご飯にしましょうよ。せっかく作ったのに冷たくなっちゃうわ」
アリアに遮られ、爽花は仕方なく口を閉じた。また邪魔された気分で残念でならない。食事が始まってしばらく経って、ふと廊下に視線を移すと瑠の背中がちらりと見えた。こちらを覗いていたのではなく、部屋から出てたまたま現れたようだ。
「待って!」
爽花が叫ぶと、食事をしていた三人が手を止めた。勢いよく走り飛び込むように瑠の背中に貼りついた。
「瑠も一緒に食べようよ。あたし、瑠と一緒にご飯食べたいよ」
「いい加減にしろ。俺がいると」
「雰囲気は壊れないよ。どうして瑠が参加すると台無しになるの? 瑠だって家族の一人なのに……」
少し涙が混ざった。慧とアリアと潤一が揃って駆け寄ってきた。爽花と瑠を囲むように立ち、困惑した表情で見つめてきた。
「放っておけって言ってるだろ」
「そうよ。瑠がいたら」
「わけわかんない!」
今まで上げたことのないほどの大声で叫び、ぎろりと睨んだ。
「こんなに空しい気持ちでご飯なんか食べたくない! もうあたし帰ります!」
くるりと振り返り黙ったまま玄関に向かった。イライラが激しすぎて大人しくしていられない。失礼極まりないとは思っても止められない。ただ前を見て、泣きながらアパートに帰った。




