七十三話
翌朝はセルリアンブルーの快晴となったが、爽花たちはどんよりとしていた。申し訳なかったが帰ると告げると誰も引き止めず小さく頷いただけだ。すでに夏休みの宿題も海パーティーも終わらせて、やることもなかった。クーラーで冷え切った水無瀬家から扇風機しかないアパートに戻るのは厳しかった。うちわを扇ぎ、遠くまで広がる空を眺めていると、暗い心が明るくなっていくような感じがする。
なぜ瑠は癒してくれるのか。逆に愛してくれる慧は息苦しくなるのか。元はと言えば爽花は恋人など必要ないし、恋愛もしたくないと決意していた。そうやって幼い頃から生きてきた。はっきり言って慧に迫られるのは苦痛なのだ。かっこいい王子様に告白されたら普通はうっとりし迷うことなく恋人同士になる。けれど爽花は曖昧な関係のまま保留している。好きか嫌いかと問われたら間違いなく好きなのだが、だからといって彼女になるつもりはない。瑠も爽花に似て、相手とどのような関係でいるかいちいち決めたりせず、ただ自分の趣味だけマイペースに続けている。欲しい、奪われたくないと焦って、他人と傷つき合ったりしない。そのおかげで爽花は安心していられる。始めはダンマリで不愛想で誤解し泣いたりもしたが、今は慣れて怒鳴り返したりもへっちゃらだ。慧には絶対に大声で叫んだりイビキをかいて居眠りなどできない。常に女の子らしく振る舞い、慧に恥をかかせないよう努力するのだ。
「セルリアンブルーって、本当に綺麗な色だな……」
瑠にセルリアンブルーという名前を教えてもらったのはいつだったか忘れてしまった。けれど瑠がセルリアンブルーは特別な青だと答えたのはずっと鮮明に覚えている。瑠と過ごしたひとときは、爽花の記憶から消えたりしない。どれだけ慧に愛されていたとしても、慧と結ばれたとしても、爽花の胸の奥には瑠が残っているに違いない。
突然、バッグの中の携帯が鳴った。はっと一瞬固まり「もしもし」と言うと京花の声が聞こえた。
「ちゃんと水分摂ってる? 外で遊ぶ時は帽子被りなさいね。カンナちゃんにも伝えてね」
「ごめん、お母さん。あたしカンナと遊んでないんだ。嘘ついたの」
「えっ? 嘘?」
「ちょっと訳は言えないんだけど……。そうだ、今から家に帰っていい?」
「今から? ……わかった。待ってるね」
戸惑った口調だが、はっきりと答えてくれた。着替えなどは必要ないので電話を切るとバッグだけ持って外に飛び出た。
アパートと実家は電車を二十分ほど乗れば着く場所にある。懐かしい道を走って、水無瀬家とはかなり大きさが違う我が家を改めて眺めた。一年しか経っていないのに一〇年くらい経った気がして、少し緊張した。窓から爽花の姿が見えたのかドアが開いた。京花が微笑んで立っていた。
「お帰り。暑かったでしょ」
「ただいま……」
ぎゅっと抱き付くと、京花も抱き締めてくれた。暖かな母親の熱が、じわじわと心に沁みわたっていく。何一つ変わっていない家族に、ほっと安心した。
「元気にしてた? ちょっと痩せたんじゃない?」
「そうかな? ご飯はちゃんと食べてるけど」
「勉強で忙しくてロクに料理しなかったんでしょ? ちょうどこれからお昼だったんだよ。そうめんでいいよね?」
「いいよ。あたしそうめん大好きだもん」
居間では俊彦が扇風機に当たりながらテレビを観ていた。爽花が目の前に現れて、勢いよく立ち上がり驚いた表情をした。
「あれ? 帰ってこれないってお母さんが言ってたのに」
「急に暇になったから。いきなり帰ってごめん……」
謝ると俊彦は爽花の頭を撫でた。
「どうしてごめんなんて言うんだ? 自分の家に帰るのにごめんなんていらないぞ。むしろお父さんは爽花に会いたくて堪らなかったんだ。久しぶりに顔が見れて嬉しいよ」
「小っちゃい頃から爽花にメロメロなんだもんね。全く、過保護なんだから」
ふふふっと京花の笑みで、瞼に涙が溢れた。しかし気付かれないよう手の甲で拭って、爽花も笑い返した。
「お父さん、太ったでしょ」
「バレちゃったか……。爽花、けっこうお母さんに似てきたなあ」
「だめだよ。腹八分目にしなきゃ。もし病気になったら」
ふと暗く沈んだ瑠が蘇ってきた。まさか先生に忘れられていると怯えているのは、先生が病気だから……?
「どうしたんだ?」
俊彦の声で我に返った。別に何でもないと首を横に振って苦笑した。
「二人とも、そうめんできたよ」
台所から京花の大声が飛んできた。いつの間に作ったのか。やはり慣れている人は手際がいい。冷たいそうめんと麦茶で爽花の心は洗われた。こんなに普通の時間が尊い存在だったとは思わなかった。一番の幸せとは、こうした「いつもの日を送ること」だと痛いほど伝わった。家族がそばにいる暮らしを当たり前と考えてはいけない。人間も動物も、血の繋がった相手と笑い合い愛し愛されるから真っ直ぐ歩いて行ける。
「学校はどう? みんなで楽しくやってるの?」
京花が好奇心でいっぱいの視線を向けてきた。うん、と爽花も頷く。
「宿題とか一人じゃ大変だけど、頑張ってやってる」
「困った時は先生に質問したり、友だちに手伝ってもらったりするんだぞ。具合が悪い時はきちんと休むんだぞ」
「わかってる。いろいろ相談してるよ」
世話になっているのが慧だというのは隠した。彼氏にすべきだと言うのは確実だ。キスやデートも繰り返し行っているし、アリアにも好かれている。間違いなく結婚まで持っていくだろう。下手をしたら水無瀬家に挨拶に行くかもしれない。まだ慧と恋人同士になってはいけない。瑠の謎を解く前に離れてしまうのは避けたい。
「好きな男の子は?」
爽花の想いに気づいたのかどうかわからないが、もう一つ京花は質問してきた。
「好きな男の子? いるわけないよ。学校にかっこいい男の子なんていないもん」
「そうなの。せっかくの青春時代なのにね。もったいないね」
「全然もったいなくないよ。男の子に振り回されて悩んだりするくらいなら、女の子たちと付き合う方が楽ちんだよ」
「まあ、爽花の気持ちもわかるけど、振り回されて悩んだりしてもいいってお母さんは思うよ。お母さんたちも数え切れないくらい喧嘩したけど、また仲良しでしょ? そもそも悩まない恋愛なんて一つもないよ。爽花はよく恋愛は苦しいものだって話してるけど勘違いじゃないかな。苦しいことよりも楽しいことの方が多いんだよ?」
強気な口調に驚いた。また、マリナと同じ意見で衝撃を受けた。若い頃はいいけれど歳をとったら孤独の世界が待っていて、空しい気持ちで溢れる。逃げ出す術はなく後戻りも不可能なため、毎日寂しさで泣き続けるしかない。子供が生まれなくても孫がいなくても、せめてとなりに優しい誰かが寄り添っていたら酷い目には遭わない。慧と結婚する未来を選べば死ぬまで明るい心で生きていける。
「お母さん、爽花の赤ちゃんを抱っこしたいからって、わがまま言ったら可哀想だろ。爽花の人生は爽花が作っていくんだから」
「だけど……」
俊彦に叱られ、京花はがっくりと項垂れた。爽花も申し訳なくなって、黙ったまま俯いた。




