七十二話
夕食の時間になっても、慧も瑠も部屋から出てこなかった。耐えきれず、慧の部屋の前で声をかけた。
「もうそろそろご飯だよ」
しかし反応はない。走り疲れて寝ているだけならいいのだが……。
「ごめん。今日のことは本当に反省してる。絶対に二度とやらないから。アリアさんとも約束したよ。自分勝手な行動はとらないって」
「……爽花は、あいつがいいのか」
微かだが呟きが聞こえた。ぎくりとして心臓が跳ねた。
「いいって?」
「だから……」
そこで呟きは途切れた。さらに緊張が高まる。いいというのは、要するに好きという意味か。けれど爽花は特に瑠を好いているという想いはなかった。いつもダンマリだし、とても仲がいいとは感じない。ただ正体を暴きたいというのは明らかだ。本当に悪者なのか。なぜ悪者なのに綺麗な絵が描けるのか。周りの人間に放っておかれるのはどんな理由があるのか。
「……あたしは慧が大事だよ。嫌いじゃないし、ストレスが溜まるなんて考えたこともないよ。ドジで半人前のあたしを愛してくれるのは慧だけだもん。あたしが慧を裏切ったりするわけないよ」
そっと中で音がして、ドアが少し開いた。隙間から慧の指がちらりと見えた。
「入って。……怒ってないから」
弱弱しい口調が可哀想になり、言われた通り足を踏み入れた。室内が真っ暗なのに戸惑った。
「あれ? 慧、どこにいるの?」
慌てて呼ぶと背中からしがみつかれ床に倒れた。そのまま仰向けにされて、慧が馬乗りになった。
「ちょ……ちょっと……」
手探りで慧の体に触れて、びくっと固まった。慧が服を着ていないのが、はっきり伝わった。
「上半身だけだよ。下はさすがに勇気がないから」
ぼそぼそと言いながら、爽花のパジャマの中に手を突っ込む。急いで逃げようとしたが、男子の方が力が強いのは当たり前だ。
「待って。あたしまだ心の準備が」
「我慢できないよ。あいつに奪われるくらいなら、もうやるしかない」
はあはあと息が荒くなり、唇も重なった。
「上だけでいいから俺に抱かせてくれ。肌に直接触れたい。一回でいい」
爽花はほとんど余裕などなく、ただ黙っているしかできない。抵抗する気力も失せて、されるがままの状態だ。
「ついに犯罪か」
遠くから、軽蔑と呆れが混じった声が飛んできた。夢から覚めたように頭が冴え渡り、焦って首だけを動かした。
「なに覗いてるんだよ」
慧の熱くイラついた震える言葉が重く響き、爽花が「やめて」と言う前に慧は瑠の元に移動した。
「覗く? 人聞きの悪い。変な息が聞こえたら不思議に思うだろ」
「うるせえな! ふざけんなよ!」
瑠の胸ぐらを掴み、慧は殴ろうと拳を作った。しかし振り下ろされずにアリアの叫び声に止められた。
「こら! やめなさい!」
アリアが駆け寄り、二人を睨みつけた。風呂上がりのようで髪がまだ濡れている。お湯で温まったはずなのに、顔色は真っ青だ。
「いい加減にしなさい! 怪我したら大変でしょう!」
「怪我なんかどうだっていいよ! この悪魔が傷つこうが構わないだろ!」
ばしっとアリアは慧の頬をはたいた。ガラス細工の瞳から涙が溢れている。
「喧嘩しないでって何度言えばわかるの? 暴力振るっちゃだめって約束したの忘れたの? しかも爽花ちゃんまでいるのよ? あなたたちが争うとみんなが不幸になるの! 高校生なんだから、それくらい考えなさい!」
ぐっと慧は俯き、瑠はまるで他人事のようにそっぽを向いていた。いたたまれない気持ちでいっぱいで、爽花もその場に座り込んだ。
最悪の日だとショックが隠せなかった。アリアは泣いているし慧は負けて瑠は不機嫌な様子で立ち尽くしている。そして爽花は解決方法などちっとも浮かばず、漂う空気さえ濁っていた。
「この世から消えてなくなりたい……」
ふいに独り言が漏れた。慧を傷付けて自己嫌悪に陥った時、爽花は瑠に弱音を吐いた。しかし瑠はもっと酷い出来事があると答えた。本当にこの世から消えてなくなりたいという地獄があるのだから、小さなことでくよくよしてはいけない。もしかしたらこれが消えてなくなりたい地獄かもしれない。
瑠は徐に床に放り出されたパジャマを拾い、爽花の頭の上に置いた。そしてすたすたと歩いて行ってしまった。素早くパジャマを着ると、慧は消えそうな声でアリアに話しかけた。
「母さん、もうあいつ、家から追い出そうよ。俺たちを苦しめる死神なんだから。奈落の底に突き落とすんだから」
「だめよ。馬鹿なこと言わないで。血の繋がった家族なのよ。死神なんて呼んじゃだめ」
「じゃあ俺が出て行くよ」
冗談とは感じなかった。本気で慧は瑠を憎んでいる。ここまで犬猿の仲とは思わなかった。
「瑠も慧もいなくなっちゃったら私はどうやって生きていけばいいの? お願いだからどこにも行かないで」
慧の想いもアリアの想いも痛いほど爽花の心に届いた。慧は黙ってぎゅっと目をつぶった後、ため息を吐きながら服を着た。全員が無言で無表情で最悪の夜となった。
アリアが眠ったのを確認してから、こっそりとベッドを抜けて廊下に出た。音を立てずに進むと瑠の部屋の隙間から灯りが漏れていた。こんこんと軽く叩くと、すぐに瑠は反応した。
「また来たのかよ。寝ないと辛いぞ」
「全然眠くないんだもん。それより絵が見たいよ」
明日、どんな顔で慧と会話すればいいのかわからない。この迷いを解消してくれるのは瑠の油彩しかない。爽花の想いが届いたのか、瑠は鍵を開けてくれた。入れよと視線で伝えてきたので、ゆっくりと部屋に入った。横にはキャンバスがあり、綺麗な薔薇が咲いている。素晴らしい作品を狭い空間に置きっぱなしにしているのがもったいない。もっと評価されるべきだ。
「瑠はめちゃくちゃ画力があるんだね。あたしも先生に会って教えてもらいたい」
「それは無理だな。そもそも会えないだろ」
「フランス語勉強してパスポート作れば会えるじゃない。才能がないのは仕方ないでしょ」
「そういう意味じゃない」
なぜか心が凍った。そういう意味じゃないのならどういう意味なのか。また沈んで暗い瑠にどきりとした。これ以上ここにいてはいけないと直感し黙って部屋から出た。




