七十話
翌朝、部屋から出るとちょうど瑠が立っていた。おはようと伝えても返事は戻って来ないので黙っていると、珍しく瑠の方から話しかけてきた。
「今日はイチジクさんのお屋敷に行くけど、お前もついてくるか?」
まさか誘われると思っていなかったので目を丸くした。
「最近、会いに行けなかったからな。お前もいると喜ぶぞ」
「行きたい! イチジクさんのお庭も見たいし」
大きく頷くと、背中から太い声が飛んできた。
「どこに行くって?」
振り返らなくても慧だと確信した。足音を鳴らして近寄り、素早く爽花の手首を掴んだ。
「二人きりでどこに行くんだ? 詳しく教えろ」
この口調は爽花ではなく瑠に向けてだ。答えずにいると慧はいらいらした表情で続けた。
「爽花は俺のものだ。俺の宝物を奪うな。絶対にお前だけには渡さない。お前もいらないって言ってただろ」
そういえばそんな出来事があった。瑠に負けっぱなしで勝てないと泣いた時だ。瑠ばかり特別扱いされて悔しがっていた。しかし本当に瑠が特別扱いされたのか爽花にはわからない。慧の方が特別扱いされて、輝かしい道を歩んでいるように感じる。
「別にどこだっていいじゃない。変な場所じゃないよ」
代わりに爽花が答えると、睨みを爽花の方に移動した。
「じゃあ俺もついて行く。実際に行かないと納得できない」
イチジクの屋敷は爽花と瑠だけの隠れ家だ。慧にも他人にも邪魔されない、大切な存在なのだ。二人きりで過ごせるのは、アトリエとイチジクの屋敷だけだ。面倒なのか瑠はゆっくりと歩き出した。仕方なく一人で行くと決めたのかもしれない。
「ああっ……。ちょっと待って……」
呼び止めたが届かず、さらに鋭く慧に睨まれた。
「爽花も、どうしてあいつと一緒にいたいんだ? ろくな目に遭わないって言ってるだろ」
「だって……独りぼっちだから」
「独りぼっちでいいんだよ。あいつは孤独が大好きなんだ。むしろ爽花がいて迷惑してるかもしれないぞ」
確かに爽花が余計なおしゃべりをすると、さっさと帰れと突き放してくる。けれどそれでは爽花は満足しない。瑠を独りにしてはいけない。アリアだって心の底では瑠を愛しているに違いない。瑠とご飯を食べたり話をしたいはずだ。全て慧が壁を作って瑠を檻に閉じ込めている。しかし瑠は反抗せず、それが自分の人生だと勘違いしている。
「爽花は無駄が嫌いなんだろ。あいつに構うのは無駄だよ。傷つけられて悲しいまま終わり。そんなの嫌だろ」
傷つけるのは慧の方だよ、と言い返しそうになって慌てて飲み込んだ。慧は疑うし詮索するが、瑠は何もしないから安心するし癒される。あの繊細な絵を見るたび心が洗われる。
「放して。痛いよ」
手首を掴む力が増して、ぎゅっと目をつぶった。すぐに慧は解放し、爽花の髪を撫でた。
「ごめん。とにかくあいつにだけは奪われたくないんだ。もう負けたくないんだ……」
弱弱しく俯き床にしゃがみ込んだ。可哀想になって爽花もとなりにしゃがんだ。
「どうしたの? 具合が悪いの? 大丈夫?」
アリアの心配そうな声が聞こえ、はっと顔を上げた。エプロン姿のアリアが見つめていた。
「大丈夫です。少し口喧嘩しちゃっただけです」
「ならいいけど……。朝食ができたから食べに来て。早くしないと冷めちゃう」
頷き、慧にも「行こう」と囁いた。黙ったまま慧も首を縦に振った。
慧をちらちらと見て、もし慧がいなかったらと想像した。慧がいなかったら瑠は表舞台に立ち、描いた絵を褒めてもらえただろう。部屋に鍵をかけて家族と距離を置くこともなく普通の生活が送れた。もちろん爽花と堂々と並んで歩けたし、心の扉も固まらなかった。慧がいなかったら、もっと瑠は自由な世界で暮らせた。なんてもったいないのだろうか。たった一度きりの人生を孤独で生き続けるなんて空しくて仕方がない。慧を悪者扱いするわけではないが、すぐ横に座って一緒に朝食を食べているのが瑠だったらよかったのにと切なくなった。
昼になると慧は用があると出かけていった。どきりと心臓が跳ねて、爽花もこっそりと外に出た。電話がかかってこないように電源を切り、イチジクの屋敷に向かって走った。うろ覚えだが細い道を見つけてゆっくりと進んだ。このどこかにイチジクと瑠がいるのだと緊張した。もしかしたら瑠は屋敷にいないかもしれないがイチジクには会える。
しばらくして、話し声が聞こえた。イチジクだと直感して聞こえた場所を探した。間もなく屋敷に辿り着いた。
「あっ、爽花ちゃん」
「イチジクさん……。お久しぶりです」
「久しぶり。もしかして遊びに来てくれたのかな?」
それもあるが、瑠と二人きりになりたかったのが本音だ。
「ちょうど瑠くんもいるんだ。みんなでスイカでも食べようか」
「はい。お邪魔します」
こくりと頷き、屋敷に足を踏み入れた。
予想していたが、中にはクーラーはなく扇風機だけだった。けれど爽花のアパートも扇風機で暑さをしのいでいるので苦痛ではなかった。一応あるのだが効果はなく、扇風機の方が涼しくなる。水無瀬家は冷蔵庫のように冷えているため、瑠はうんざりしているかもしれない。爽花の姿を見た瞬間、瑠は目を丸くした。
「お前、どうやって」
「慧が出かけちゃったからね。急いだから疲れちゃった」
にっこりと微笑んだが、瑠は首を横に振った。
「早く帰れ。バレたら酷い目に遭うぞ」
「何で? せっかく来たのに。どうして追い返すの?」
「あいつに疑われて泣いてもいいのかよ」
「け……喧嘩はよくないよ。爽花ちゃんも瑠くんも落ち着いて……」
イチジクは焦って声が震えていた。普段、二人は仲良しだと考えているから余計驚いているのかもしれない。
「絶対に帰らないよ。瑠がここにいるなら、あたしもここにいる」
「またそれかよ。いい加減にしろ。子供じゃないんだからわがまま言うな」
「わがままじゃないよ。あたしは、ただ」
「俺に構うなっていつも言ってるだろ。さっさと帰れ」
遮られて口を閉じた。ぐっと拳を握り締め、固い口調で呟いた。
「ついてくるかって言ったのは誰だったのか覚えてるの?」
瑠も黙った。たぶん無意識で誘ったのだろう。わけがわからずイチジクの狼狽は激しくなっていく。
「喧嘩はいけないよ。ほら、冷たいお茶飲んで。スイカ切ってくるから待ってて」
イチジクが台所へ移動し、完全に爽花と瑠だけの空間になった。まだお互いに不満は残っているが、座って喉を潤した。
早く帰らないと慧に疑われてしまうという気持ちは痛いほど伝わった。冷たく感じるが本当は優しいのだ。自分の勝手な行動で爽花が傷付かないように帰れと怒鳴っているのだから。やはり瑠は謎だ。どれだけ嫌がられても正体を暴きたい。心の扉を開きたい。慧は瑠を悪魔呼ばわりしているが、悪魔が綺麗な絵を描けるわけがない。美しく素晴らしい作品に、爽花は何度も癒されている。ストーカーではないが、これからも粘り強く瑠を追いかけると改めて決意した。




