六十七話
リビングを通ってキッチンに行くと、朝の支度をしているアリアと目が合った。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい。すごくスッキリしてます」
昨晩、瑠が部屋に入れてくれたのは、海で泣かせてしまったお詫びだろうと爽花は考えていた。そうでなければ、現在の絵やベッドで寝ていいなど絶対に話さないはずだ。瑠と一緒に眠ってしまったが、いかがわしいことはしていないしベッドも広くてお互いの肌に触れるサイズではない。それに慧とは、もっと狭いベッドで抱き合っている。
「まだ朝ご飯できないの。慧のこと起こしてくれる?」
アリアの言葉で、ぼんやりとしていた頭の中が冴えた。
「えっ? あたしが?」
「きっと慧も爽花ちゃんに起こしてもらったら嬉しいと思うし。いつまで寝てるの! って大声を出せば一発で起きるわよ。怖がらなくても大丈夫」
それは母親だからできるのだ。爽花は同い年で家族ではない。世話になっているのに偉そうな態度はとれない。
「慧は爽花ちゃんを怒ったりしないから緊張しなくても平気よ」
「だけど起きるかどうかわからないし……」
「慧はすんなり起きるわよ。目覚めも悪くないから」
確かに爽花が部屋にやってきたら喜ぶだろう。眠っている慧の姿にどきどきしてみたい。普段は見られないから余計かっこよく映る。ふと疑問が生まれて、アリアにぶつけてみた。
「瑠は? いいんですか?」
動かしていたアリアの手が一瞬固まり、笑顔がぎこちなくなった。
「瑠は……いいの。慧とは違ってなかなか起きないし不機嫌だし、放っておけば一人で起きるわ」
また放ったらかし。本当に慧しか可愛がってないようだ。瑠も大事な息子なのだから、愛さなくてはだめなのに……。
「わかりました。行ってきます」
少しぶっきらぼうに答えて、くるりと後ろを振り返った。
ドアの前で軽く深呼吸して、勇気を出して取っ手を掴んだ。鍵はかかっていない。奥に背を向けた慧が布団にくるまって寝ている。そっと近づき、鼓動が速くなった。覗き込むと、どくんと心臓が跳ねた。かっこよさの上に色っぽさがプラスされて、爽花も興奮してしまう。
「慧、朝だよ」
声をかけてみたが反応はなかった。仕方なく布団を揺すると、ようやく「うーん」と呟きが聞こえた。ゆっくりと爽花の方に視線を移動させる。
「あっ……。お、おはよ」
言い終わる前に慧に手を掴まれベッドに倒れた。素早く腕を背中に回し、慧が馬乗りになった。
「自分から来るなんて、意外と爽花って大胆だね」
「アリアさんに頼まれただけだよ。起こしてきてって」
「えー? 何だよ。母さんに言われたから? ついに爽花がその気になったって期待したのに」
「その気ってどの気よ」
慌てて離れようとしたが、慧の方が早くて柔らかな唇が重なった。目覚めのキスみたいだ。血液が沸騰するように熱く、頬が赤くなってしまう。ばくんばくんと胸が高鳴って止まらない。
「可愛いなあ。照れちゃって。毎日こうやって爽花が起こしにくればいいのになあ」
「も……もういいでしょ。これ以上ここにいたら、あたし爆発しちゃうよ」
何とか伝えると、回していた腕が外された。寝相がよくないのか服がめくれて肌が露わになっていて、急いで目を逸らした。爽花は男性の体をじっくりと見た経験がなく、幼い頃父と風呂に入った時にちらりと視界に映っただけだ。スラリと美しい慧の姿を平凡な爽花が見たら世の中の女性に殺されそうだ。
「アリアさんが朝ご飯の支度してるよ。まだできてないんだって」
「そっか。起こしてくれてありがとう。また明日もよろしくね」
「今日だけだよ。もう頼まれても行かないからね」
しかし慧はにこにこと笑いながら歩いて行ってしまった。からかわれて悔しかったが、追いかけるつもりもなかった。
「……さてと、じゃあ次は……」
爽花が瑠を放っておくわけなかった。別にいいと言われて「わかった」など答えたりしない。たとえ不機嫌な態度で怒鳴られたとしても、絶対に無視はしない。しかし鍵がかかっているのに気が付いた。爽花がアリアのベッドに戻った後、瑠が一度起きて鍵を閉めていたら開かない。どうか鍵が外れたままの状態だったらと願いながら取っ手を引くと、すんなりドアは動いた。さらに瑠はすでに起きてベッドに座っていた。カーテンの隙間から朝日が差し込むのを眺めている。
「あれ? 起きてたの」
「ついさっきだけどな。久しぶりに熟睡して疲れがとれた。よかった」
最近ほとんど寝ていないと話していた。なぜ昨晩は眠ったのかはわからない。
「あたしのとなりで寝てたよね。嫌じゃなかったの?」
「すぐ後ろでイビキかかれてたら眠くなるだろ」
「イビキって……。酷い。あたしも一応女なんだからね」
瑠は爽花の口に指を当て「静かにしろ」という目線を向けた。爽花が瑠を起こしに行ったという事実を、慧とアリアに隠すためだ。油断は禁物だ。暗くて昨日のキャンバスの薔薇は少しくすんでいたが、明るい光に照らされると鮮やかに輝いた。本棚には花の図鑑や風景の写真集、いろいろなサイズのスケッチブックが並んでいて、学校の教科書などは置かれていないのに驚いた。
「瑠の部屋は大人っぽいね。色も黒とか白とか灰色ばっかりで。だけどそのおかげで、絵が綺麗になるのかもしれないね」
「俺も余計な飾りや置き物は必要ないんだ。欲しがりじゃなかったし、油彩道具だけ買い与えていればいいって自分勝手な決まりをつけられてたしな」
ぼそっと呟いた言葉に心がひんやりと冷たくなった。どういうこと? と聞きたかったが、たぶんダンマリだろうと考え諦めた。




