六十三話
じめじめとした日々が終わりに近づき、爽花が好きなセルリアンブルーが空に広がった。学校ではクラスメイトが夏休みの計画で盛り上がり、爽花もそろそろ準備することにした。まず嫌な宿題を始めに済ませて、その後に自由に遊ぶのは頭に浮かんでいた。
ふと去年の夏を思い出した。まだ慧の正体を知らず、夏祭りに誘われて可愛い着物も買って、悩みも迷いもなくうきうきしていた。まさか来年二人の男子と関わっているとは夢にも思わなかった。しかもただの男子ではなく、王子様みたいな美男子だ。
アパートのテーブルで計画を立てていると、突然携帯が鳴った。出ると京花の声が耳に飛び込んだ。
「爽花、お久しぶり。元気でやってる?」
「久しぶり。元気だよ。お母さんは?」
「お母さんも元気。昔から病気知らずでしょ?」
「そうだったね。お父さんはどうしてるの?」
「仕事が忙しいけど能天気だよ。相変わらずね。毎日爽花に会いたいって言ってる。小さい頃から、爽花にメロメロだったもんね」
一人暮らしを許してくれたのは父だ。爽花を怒ったことはなく、常に味方でいてくれる。爽花も二人に会いたかった。
「ねえ、夏休みに家に帰ってきたら? 爽花と一緒にご飯食べたいな」
胸がぎゅっと狭くなった感じがした。本当はそうしたいが、水無瀬家に泊まると約束してしまった。アリアも爽花を可愛がってくれるし、いきなり断るのは失礼だ。
「悪いけど、カンナと遊びに行くの」
「あっ、予定入ってたのね。じゃあ仕方ないね。気を付けて遊びなさいよ。危ないこととかしないように。カンナちゃんにも言っておいてね。あと、水分もきちんととってね。熱中症になったら大変だよ」
ちょっとしたことでも必ず心配するのが母親だ。母親が子供を愛する力は計り知れない。宇宙よりも大きいかもしれない。
「うん。ありがとう。ごめんね」
穏やかに答えて電話を切った。
自分の居場所があり待っている人がいる。みんなこうやって愛し愛されて生きていくのに、なぜ瑠は孤独なのか。瑠の居場所は狭いアトリエで、待つ人は血の繋がりもない油絵の先生ただ一人だ。空しくて寂しくてどうしようもない。印象が暗くてとっつきにくそうと避けられて、綺麗な絵を褒めてもくれない。瑠はそれでいいと考えているが、爽花はもったいなくて心が冷たくなってくる。
「酷い……。どうして瑠ばっかり……」
インターフォンが鳴って、はっと我に返った。慧かと思ってドアを開けたが、瑠が立っていた。
「ど……どうしたの?」
「いや、別に」
近くに来たから寄ってみたというだけか。どきどきと速い鼓動を落ち着かせ、そっと小声で聞いた。
「お茶淹れるよ。コーヒーじゃないけどいい?」
「甘くなければいい」
わかった、と頷いて爽花が台所に移動すると「冷たいので」と瑠は付け足した。作っておいた麦茶を注いでテーブルに置いた。喉を潤しながら、瑠は何度も壁をちらちらと見ていた。
「散らかってるでしょ。掃除はしてるんだけど、整理整頓する暇がなくて」
ははは、と苦笑してみたが、瑠は意外な答えを返してきた。
「散らかってるとかはどうでもいい。そうじゃなくて壁の広さを確かめてるんだ。色とかもな」
「えっ? 壁の広さ? どうして?」
瑠のやりたいことがわからない。そんなことを知って役に立つことなどあるだろうか。さらに瑠は立ち上がって腕を伸ばし、「このあたりがちょうどかな」と独り言を漏らしている。
「建築の勉強でもするの? 新しい趣味?」
「そんなわけないだろ。大きすぎても小さすぎてもかっこ悪くなるから、しっかりサイズを調べなきゃいけないんだよ」
大きすぎても小さすぎてもかっこ悪くなるものとは何だろう。爽花の頭には全く浮かばなかった。しばらくして瑠は椅子に座り、バッグからメモ帳を取り出し素早く書き込んだ。普段は絵筆や鉛筆なので、ボールペンを持つ瑠の左手は不思議だった。
「それ貸して」
好奇心が沸いて、つい言ってしまった。
「はっ?」
「瑠の文字見てみたい。慧ってすっごく文字が綺麗なの。瑠も綺麗なのかなって……」
男子にしてはかなりレベルが高かった。あの驚きは未だに忘れていない。しかし瑠はメモ帳をしまい、抑揚のない口調で答えた。
「俺はあいつよりうまくない。あいつが油絵を描けないのと同じで」
やはり二人は正反対ということだ。けれどうまくないだけで下手ではないだろう。爽花は文字も適当で、画力もゼロと来ている。一つでもいいから「これだけは完全にできる」という取り柄が欲しかった。
「あたしも特技とか持ってたらよかったなあ。普通でドジなんてさあ……」
はあ、とため息を吐くと、瑠はじっと真剣な眼差しを向けてきた。眼光の強さが半端なく、緊張で冷や汗が流れた。
「……お前には、誰も持っていないものがあるんだよ。自分でわからないのか?」
「わからないよ。誰も持っていないものって何?」
その瞬間、カンナの言葉が胸に響いた。慧にラブレターを渡したと伝えたら、爽花は普通の子と違う特別な力を持っていると言われた。爽花なら最後までやり遂げられると。それと同様に瑠も昔から特別扱いされてきたらしい。努力しても褒められるのは瑠の方で、慧は負けてばかりだと泣いていた。けれどよく考えると、それは逆ではないか。瑠と慧の過去は知らないが、瑠はほったらかしにされ、慧は明るい場所でたくさんの人間に囲まれ、輝かしく生きていたように思える。
「瑠って、本当に特別扱いされてきたの?」
爽花の突然の質問に、瑠は驚いた表情に変わった。お前が犯人だと警察に指を差されている顔に似ている。
「特別扱い? 俺が?」
「慧が言ってたよ。昔から褒められるのは瑠で、俺は認めてもらえないとか、あいつに勝てなくて負けっぱなしとか……」
悔し気に泣いている姿は鮮明に覚えている。非の打ちどころがない慧が弱弱しく嘆いて、こんな想いを秘めていたのかと衝撃を受けた。瑠は首を横に振って、面倒くさそうに答えた。
「俺を褒めてくれたのは先生だけだ。お前に同情してもらうために演技でもしたんじゃないのか」
「演技?」
「お前は騙されやすい性格だから、ちょっと涙流せば優しくするだろ。とにかく俺を褒めたのは先生だけだ。あいつは自分が心地よくなるならいくらでも相手を振り回す癖があるぞ」
騙されたという事実にショックを受けた。愛している爽花に包み隠さず全て話していたと信じていたのに。では好きだという想いは……。
「……この前、慧にキスされたの。それも演技だったのかな……」
無意識に口が動いた。止めようとしても収まらない。
「それは俺にはわからねえな。だけど惚れてるのは間違いないんじゃないか。たくさんの女と付き合ってきたけど、お前は本気だろ。家に連れて来たり金払ったりは、フリじゃできないからな」
「ならいいけど……」
少しだけほっとした。また瑠に癒されたと感じた。
「さて、じゃあ帰るかな」
すっと瑠が立ち上がり、爽花も勢いよく立った。玄関に向かい、靴を履く瑠に囁いた。
「慧に、これからは嘘ついたり誤魔化したりしないでって伝えて。あたしはそういう人は嫌いだって」
掠れた口調で瑠の耳に届いたか自信がなかった。黙ったまま瑠はドアを開けて歩いて行った。




