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六十二話

 翌日は慧の笑顔が絶えなかった。ファーストキスが爽花なのが嬉しくて堪らないといった感じだ。バレないように爽花も笑みを返しておいた。すでに瑠とキスをした事実は完璧に隠し通す。

 迷ったが、放課後にアトリエに行った。どうやらここにはお化けが存在しているようなので、瑠がいなかったらすぐ帰るつもりでいた。ドアを開けると瑠は腕を組んで立っていた。普段は椅子に座っているのにどうしたのか。爽花が聞く前に、瑠はぼそっと呟いた。

「おかしくなってるな。最初からやり直しだ」

「やり直し?」

 まだ色を塗っていない状態なのでやり直しは簡単そうだが、爽花にとっては全くおかしいと感じない。

「直さなくてもいいじゃない。お花でいっぱいだし。どこがおかしいの?」

「花がいっぱいあり過ぎて、固まりみたいになってるだろ」

 爽花も瑠のとなりに移動して見てみたが、どこが悪いのかわからなかった。この徹底的に仕上げるという熱意は、どこから生まれるのか。

「ねえ、瑠の油絵の先生ってどういう人? 厳しかった?」

 意外だったのか、珍しく瑠は目を丸くした。

「厳しいというか、こだわりがすごく強い性格だったな」

「ふうん……。こだわりねえ……」

 爽花も呟くと、突然瑠は話し始めた。

「あの人は、俺にとって命の恩人だ」

「命の恩人?」

 驚いて大声になってしまった。代わりに瑠は小さく頷いて続けた。

「あの人がいなかったら、この歳まで生きられなかった。あの人がいてくれれば、家族なんかいらない」

「家族もいらない? 瑠と先生って血は繋がってないんだよね?」

「繋がってない。だけど俺はずっと憧れてるし、信じてるのもあの人だけだ。他はどうでもいい」

 瑠の口調が明るく、ほんの少し笑っているようでどきりとした。瑠が笑うなど絶対にないと決めつけていた。

「瑠が憧れてるなんて、先生は相当絵が上手なんだね。花束のスケッチブックもすごく綺麗だったし。鉛筆画なのに色が塗られてる感じがした」

「だろ。俺はまだそこまで到達していない。全然だめなんだ」

 だめとは思わないが、確かにレベルアップしたいのはわかる。今の状態で満足すると成長できなくなる。

「そっか。瑠はきっと先生と同じになれるよ。……先生が命の恩人ってどういう意味?」

 素直に質問すると、瑠は目を逸らして囁いた。

「お前に言っても無駄だろうから言わない」

「えー? どうしてよ。教えてよ」

 むっとしても瑠は反応なしだ。爽花を馬鹿にしているとはっきりと伝わった。悔しいがその通りなので黙るしかない。代わりに違う疑問が漏れた。

「家族より、油絵の先生の方が大事なの?」

「そうだ。俺の人生の中にいる人間はあの人だけで、俺は生きていくためにあの人が教えてくれた油彩を描き続けていくんだ」

 そこまで偉大なのかと驚いた。普通は家族や友人が最も大切なのに、瑠は先生が基本になっているのか。

「……じゃあ、先生や油絵がなくなったら、瑠の人生は何も残らないの?」

「そういうことになるな。油絵で生かされてるって感じだ。お前、けっこう賢くなったな」

 しかし嬉しいという気持ちは生まれなかった。瑠の人生の中にあるものが絵の先生と油彩だけとは知らなかった。たった二つしか存在していないのは空し過ぎる。

「もっと仲間を増やさなきゃだめだよ。たった一人しかいなかったら、本当に……消えちゃうよ。油絵以外にも楽しい趣味はあるじゃない」

 励ますつもりで言ってみたが、瑠は首を横に振った。

「俺は油絵だけだ。いきなり何か始めるなんて無理だ」

 瑠の気持ちも痛いほど感じるが、世の中は持ちつ持たれつだ。瑠はみんなから放っておかれて寄り付く人もいない。心配するのも助けようとするのも爽花しかいない。

「俺に構うなっていつも言ってるだろ。用が済んだら返ってくれ。やり直しで大変だから」

 返す言葉がなく俯いて振り返った。アトリエのドアを開いて、とぼとぼとアパートに向かって歩いた。





 居間に入ると、瑠の言葉が心にぼんやりと浮かんだ。人生に存在しているのは油彩に関するものだけだ。つまり油彩が消えたら、もう何も残らない。空しく寂しい、独りぼっちの世界にいる瑠を、どうしても暖めたくて仕方がなかった。もちろん爽花にはそんな力などない上に、普通の人よりもドジで半人前なのだから方法は思い付かない。爽花が瑠を助けるのは不可能だ。しかし瑠の生きていく暮らしの中で、ほんの少しでも寄り添ってあげられたらという気持ちが胸に溢れてくる。全く自分の感情を示さないのも、相手を信用していないからで、瑠が心の扉を開けなければいつまで経っても状況は同じだ。そしてそのまま進んでいく。瑠は孤独でいて幸せになれるだろうか。孤独とはとても厳しいものだと思うが、瑠はあえてそちらの方へ歩んでいくのか。爽花は予言者ではないので未来は見えないが、きっと後悔が待っているはずだ。どんな生き物も愛がなければ真っ直ぐ立ってもいられない。助けてくれる、護ってくれる大事な支えがあるから、生きていける。笑って、前を向いて足を踏み出せる。瑠が常に無表情な理由は、大事な支えがすぐそばにないからだ。油彩の先生はフランスに住んでいる。距離が長いせいで、瑠は明るい笑顔を作れない。だから日本にも支えを用意しなくてはいけない。瑠が倒れないように護るのは誰なのかは、爽花は知ることができない。

「どうして瑠ばっかり酷い目に遭うの……」

 ふいに独り言が漏れた。あんなに綺麗な絵を見てもらえず、評価もされず、もったいないじゃないか。慧ばかり輝く日々を送っていて、友人も数え切れないほどいる。長い間休んだ時、クラスメイトだけではなく教師まで喜んでいた。もし慧がいなかったら、瑠にもその権利が与えられたかもしれない。直接ではないが、また慧に邪魔をされたという感情が溢れた。慧がいなければ瑠の本心に気づけるはずなのにと考えてしまう。いつも穏やかで優しい慧を悪者扱いするわけではないが、瑠に触れようとすると必ず慧の姿が割り込むのが嫌だった。自己嫌悪に陥り、しばらく床にしゃがんで、がっくりと項垂れた。

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