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六十一話

 六月に入り雨が続いた。セルリアンブルーの空は見れず、どんよりと雲が覆い被さっている。夕方から降るとアトリエへ行けなかった。早く七月にならないかとうんざりしてしまう。爽花のアパートは学校とあまり離れてはいないが、ある日傘を忘れてしまった。少し濡れたくらいでどうってことはないし、よくあるミスだと割り切っていたが、放課後に誰にも話していないのに慧がやって来た。

「どうしたの?」

 驚いて聞くと、慧はにっこりと微笑んだ。

「天気予報では降らないって言ってたから、たぶん持ってきてないかなって思ってさ」

 爽花の性格をよく知っている。愛しているという証拠だ。

「俺も折りたたみなんだけど、一緒に帰ろうよ」

「えっ……。いいの?」

「いいから迎えに来たんだよ」

 よく言う相合い傘をしようという意味だ。周りの人々の目には、完全に恋人同士としか映らないだろう。イチジクには爽花が浮気をしているみたいに感じるかもしれない。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 爽花が頷くと、慧はしなやかな指で髪を撫でた。

 折りたたみなので二人が収まるのは難しく、かなりお互いの体が密着した。爽花が濡れないよう慧はほとんど中に入らず、鞄もびしょびしょで申し訳なくなった。これほど気が利いて素敵な男子に好かれているのに、爽花は彼女になるのを拒否している。はっきり言って頭がおかしい。

「爽花は、ジューンブライドって知ってる?」

 ふいに慧が質問してきた。首を横に振って爽花も聞き返した。

「知らないよ。人の名前?」

「違うよ。雨の日に結婚する花嫁って意味だよ。雨が降ってる時期に結婚すると幸せになれるんだって」

「へえ……。でも、雨より晴れの方が幸せになれるってあたしは思うけどなあ」

 できればセルリアンブルーの空の日が理想だ。暖かく緑に溢れている春などが望ましい。暑すぎる夏や寒すぎる冬は避けたい。

「まあ、雨もロマンチックだね。あたしそういうの好き……」

 言い終わる前に、慧が唇を重ねてきた。勢いあまって持っていた傘が地面に落ち、雨に濡れながらキスをした。一瞬何が起きたのか頭の中が白くなり、だんだん頬が赤くなっていく。急いで離れて、手の甲で唇を拭った。

「ちょっと……。い……いきなり……」

 慧は余裕の笑みで、さらに額にもキスをした。

「爽花が可愛かったからさ。それに、俺のこと好きだって言わなかった?」

「ジュ……ジューンブライドが好きって言ったんだよ」

「何だ、そっちかあ……。残念だなあ」

 やけに子供っぽい声で呟き、落とした傘を拾った。

 もしかしたら、キスをするために迎えに来たのかもしれない。雨なら傘で隠れるし、邪魔するものはない。ジューンブライドというロマンチックな言葉で爽花をうっとりと油断させて唇を重ねるのだ。ばくんばくんと心臓が跳ねて、足もふらふらで力が抜けそうになった。しかし慧は焦らずきちんと歩いているし、緊張もあまりしていないみたいだ。何度も転びそうになりながらアパートの近くに辿り着いた。

「ここまででいいよ。走れば濡れないし」

「だめだよ。ちゃんとアパートまで行かなくちゃ」

 親切な気持ちに胸が高鳴った。自分がお姫さまになった感じがした。慧への愛情が溢れすぎて、アパートのドアの前で告白をしようと真剣な眼差しを向けた。

「あ……あのね、あたし……。け……慧のことが……」

 震えながら言葉を出したが、雨の音にかき消されて慧の耳に届かなかった。

「風邪ひかないよう、すぐ服を着替えてお風呂で体暖めるんだよ」

 お風呂という言葉で、瑠との秘密を思い出した。同時に瑠と離れ離れになるという恐れも生まれた。まだ答えを決めてはいけない。先走ったら失敗し、二度と後戻りできなくなる。

「慧もね。慧が学校を休んだら、みんなが悲しくなっちゃう」

「わかってるよ。爽花に毎日会いたいから気を付けるよ」

 慧の柔らかな口調に、ほっと安心した。

「どうもありがとう。お世話になってばかりでごめんね」

「謝らないで。俺も一緒にいられて嬉しかったし。爽花を護るのは俺の役目なんだ」

 慧の制服はびしょびしょで、鞄もぐっしょりとしている。中の教科書なども濡れていたら、と不安になった。

「じゃあ、また明日」

 そっと言うと、慧は向きを変え走って行ってしまった。部屋からタオルを持ってこようという爽花の想いに気づいていたらしい。残念だが、慧も早く着替えたいだろうと引き止めるのは諦めた。



 

 ドアを開けて、居間ではなく洗面所に行った。さっさと制服を脱ぎ捨てて浴室に入る。湯を沸かしていないが、シャワーだけでも汚れは落ちる。鏡に映った全身を眺めていると、慧にキスをされたという興奮が蘇ってきた。取り柄もなく平凡な爽花が、王子様に愛されキスまでされた。慧はすでに爽花を彼女と見ているのだろう。爽花はただ彼女のフリを演じていればいい。

「彼女のフリ?」

 はっと目を丸くした。瑠がストーカー集団に追われている時、助けようとして爽花は彼女のフリをしようかと聞いた。自分で、そう伝えたのだ。おまけに断られて涙まで流した。フリでもいいから、瑠の彼女になりたいと願っていたのかもしれない。さらにストーカー集団を追い払うべくキスもした。強制だが唇は触れ合った。つまり爽花のファーストキスの相手は慧ではなく瑠だ。一糸まとわぬ姿を晒したのも瑠で、足元から凍り付いていった。全て初めは瑠の方だ。たくさんの隠しごとを作って嘘をついたり誤魔化したりしているが、ボロが出てバレたりしたら慧はどんな目つきで爽花を詮索するのだろう。疑われるのが怖くて緊張の糸が絡みついた。この糸はシャワーでは落とせない。爽花が正直に話し謝罪するしか方法はない。慧が許してくれる可能性は低いが、いつかきっとその日は来る。じっとしていられなくてシャワーを止めると、よく拭きもせずにパジャマに着替えた。そしてベッドに飛び込む。ぎゅっと目をつぶってそのまま寝てしまおうと考えたが睡魔は現れず、代わりに携帯が鳴った。恐る恐る開くと、慧のメールが届いていた。電話じゃなかったのが幸いだった。

『ちゃんと暖かくしてる? キスのこと、母さんに教えちゃったけどいいよね? 俺のファーストキスが爽花だって、すごく喜んでるよ』

 やはり慧は爽花が未体験だと信じている。本当は……本当は、瑠なのに……。できる限り自然な言葉を選び、メールの返信をした。

『そっか。よかった。あたしもファーストキスが慧で嬉しい。だけどこれからはびっくりさせないでね』

 送ってから、油断をしないと拳を作った。爽花の不注意で、みんなが驚き傷つくのだ。その「みんな」の中にアリアも加わった。せっかく気に入ってもらえたのに嘘つきだと呼ばれたらショックでどうしようもなくなる。この後、いつまで経っても慧の返事はなく、静かに眠りにつくしか爽花にはできなかった。

 


 

 

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