六十話
悶々とする胸を晴らすために、土曜日に散歩に出かけた。ぶらぶらと歩いていると、背中から肩を叩かれた。振り返ると恵比寿の表情のイチジクがいた。
「あれ? イチジクさん?」
「買い物してたら爽花ちゃんが見えたんでね。最近、瑠くん全然遊びに来てくれないんだよ」
確かに毎日アトリエに引きこもっているし、わざわざイチジクの庭に行く用事もない。広すぎる家屋に一人でいたら、寂しいのは当然だ。
「もしよかったら、うちでお茶飲んでいって」
「いいんですか?」
「もちろん。おいしいお菓子もあるからさ」
イチジクの優しさに胸が熱くなり、はい、と大きく頷いて微笑んだ。
立派な日本家屋は、いつ見ても美しいし庭の花も和風なイメージで、爽花には羨ましい場所だった。急須でお茶を淹れているイチジクに、そっと質問してみた。
「イチジクさんには、お孫さんとかいないんですか?」
「ん? 孫?」
「瑠を孫みたいに可愛がってたけど、実際に血が繋がってるお孫さんはいないんですか?」
失礼だとは思ったが、気になってしょうがない。こんなに大きな屋敷に一人で暮らしているのは少しおかしい。ふう、と息を吐いて、イチジクはゆっくりと答えた。
「一応いるんだけど、住んでる国が違うんだ。パスポート? っていうのも持ってないし、向こうからもう日本に戻るつもりはないって決められちゃったんで、こうしてひっそり住むしかなくってさ。たぶん今は中学生にはなってると思うよ。……一度でいいから抱っこしてみたかったよ」
つまり顔も名前も知らないのか。それはあまりにも不憫だ。
「まあ、あっちは楽しくやってるみたいだから、それでいいやって気持ちだけどね。どうせあと数年で死んじゃうしさ」
「待ってください」
勢いよく立ち上がって、イチジクの横に移動した。そっと手を握り真っ直ぐな眼差しを向ける。
「死んじゃうなんて悲しいこと言わないでください。どうしてそんな酷いこと言うんですか? どうせとか話しちゃだめです」
ぎゅっと力を強め、イチジクは驚いた顔になった。若い頃は遊んだり楽しいけれど、年老いた時に独りだとすごく寂しくなる。周りにいる人は孫と暮らしているのに自分は孤独。そうならないためには恋愛に臆病にならず、捨てられてもいいからと割り切って誰かと付き合うしかない。まだ体験もしていないのに諦めるのはもったいないけれど、心に傷痕を残すのは……。
「ごめんね。おばあちゃんになると弱気になっちゃってね。爽花ちゃんの言う通りだよ。死ぬなんて考えちゃだめだよね」
「だめですよ。もっと人生を輝かせなくちゃ」
たった一度きりの人生を無駄にしてはいけない。最後の最後まで、イチジクには笑顔でいてほしい。
「爽花ちゃんは、瑠くんの恋人なんだよね」
「えっ?」
衝撃で目が丸くなった。どきりと心臓も跳ね上がる。
「あたしが瑠の恋人?」
「違うの? ずっとそうだって思ってたけど。勘違い?」
イチジクの目にはそう映っていたのかと驚いた。手を振って冷や汗を流した。
「恋人じゃないです。瑠は女の子に興味ないし、あたしも恋愛をしたくないんですよ」
「恋愛したくない? どうして?」
「だって、捨てられたり飽きられたりしたら辛いじゃないですか。突然別れようなんて言われたら悔しいし、今までの時間は何だったのってなりませんか? あたしの時間を返してよって。大事な人生を無駄にしたくないんです」
一気に話すと、イチジクはどこか遠くを眺める目つきに変わった。
「そうかもね。でも、よく考えたら、無駄なことっていっぱいあるよ? むしろ恋はかけがえのない、神様からの贈り物だよ。特に女の子は母親になれるし幸せになるよ。瑠くんも女の子に興味ないなんてねえ。かっこいいし絵も上手だし、子供が産まれたら家族も喜ぶだろうに」
ほぼマリナと同じ意見だ。子供を産むと女性は強くなれるらしいが、本当かどうかはわからない。返す言葉がなく黙っていると、イチジクがお盆の上の和菓子を差し出した。断るのは失礼なので素直に「いただきます」と食べると、高級な味が広がった。
「おいしいですね。こんなにおいしいお菓子、食べたことありません」
「娘が作ってくれたお菓子の方が、よっぽどおいしいけどね」
少し尖った口調だった。爽花の強がりに嫌気が差したのかもしれないと緊張した。無言のままお茶を飲んで早く帰ってしまおうと焦ったが、イチジクが奥から何かを持ってきた。卓袱台の上に載せたのは、三冊のスケッチブックだった。黒、オレンジ、緑色の表紙だ。
「……瑠のスケッチブックですか?」
試しに聞くと、すぐにイチジクは頷いた。
「そうだよ。瑠くんが部屋に置くスペースがないから屋敷に置かせてくださいって頼んできてね。この緑色のスケッチブック開いてごらん。すごく綺麗な絵が描かれてるよ」
言われた通り開いてみると、確かに細かい鉛筆画が全てのページに並んでいた。もうプロと呼んでもいいくらいの画力には、いつも驚かされる。
「瑠くんの絵は、繊細で特別な感じがするよね。上手く言葉にできないんだけど」
それは爽花もよくわかる。油彩など知らなかったし興味もなかった。しかし初めてアトリエで白薔薇の絵を見た時、不思議だがなぜかとても惹きつけられた。理由はないけれど癒されるのだ。そして、これほど素晴らしい作品を生み出す瑠の謎を解き明かすため、いつもそばにいようと努力している。
ぼんやりとスケッチブックを二人で眺めていると五時の鐘が鳴って、外が暗くなっているのに気が付いた。バッグを持って慌てて立ち上がり、深くお辞儀をした。
「ごちそうさまでした。いきなりお邪魔してすみません」
「こらこら、子供は遠慮しちゃいけないよ。爽花ちゃんとおしゃべりできて嬉しかったよ。今度は瑠くんも一緒にね。いつでも待ってるからね」
優しい態度に、自然に微笑んだ。もう一度お辞儀をしてからドアの取っ手に手をかけた。
「恋っていう贈り物を無駄にしちゃいけないよ。独りぼっちほど苦しいものはないからね」
イチジクの呟きが耳に飛び込んだが、聞こえないフリをしてそのまま歩き始めた。
恋愛は楽しいものではなく苦しいもの。独りが一番楽でいられる。そうやって爽花は生きてきた。自分には恋人など必要ないし、一人で暮らして行けると自信があった。その決意が、たった一瞬で傾いたような感じがした。
どんな人に聞いても、恋愛は楽しいものだと答えが返ってくる。「触らぬ神に祟りなし」は間違いだったということか。世の中には結婚していない人だっているではないか。周りが爽花に恋をさせようと仕向けてくるのは、すでにぴったりの男子が存在しているからだ。慧は爽花を愛し護ってくれる。「あたしも慧が好き」と一言伝えたら、素敵なカップルが生まれる。それと同時に、癒しである瑠や油彩が消え失せる。彼女になったら、非の打ちどころがない慧に恥をかかせないよう常に緊張し女の子らしく振る舞って飾り付ける。つまりストレスでいっぱいになるという意味だ。しかし癒しは消え失せたので、ずっとその状態でいるしかない。愛してくれる人も癒してくれる人も手に入らないのなら、このまま関係を曖昧にさせたままで過ごしていれば、とりあえず穏やかでいられる。
突然、携帯が鳴って、びくっと体を震わせた。ゆっくりと手を伸ばし携帯を持って耳に当てると、慧の柔らかな声が飛んできた。
「爽花、何か悩んでないか?」
「えっ?」
「急に心配になってさ。大丈夫か?」
「ないよ。悩みなんて」
爽花が誤魔化すと、慧は「それならいいけど」と囁いた。
「触らぬ神に祟りなしは間違いだったのかな……」
「えっ? なに?」
「あっ……。ご、ごめん。気にしないで」
独り言が漏れてしまった。慌てて謝ると、微かだが安心する息の音が聞こえた。




