五十八話
翌日はアパートで過ごすことにした。複雑な思いが飛び交っていて、ぼんやりしている。まず最初はマリナの話だ。恋愛をするのは当然で、ぐるぐる振り回されるのも当然。結婚をしないと、後に寂しい時間が襲いかかって来る。イチジクがまさにそれで、一人で暮らすには広すぎる屋敷で花の栽培をしているのは悲しいだろう。一人や二人に捨てられてもまた新しい彼氏を探せば問題ないとも言っていたが、そんなに気軽に相手を忘れられるものだろうか。だったら世の中の人間はみんな幸せになっている。ずっと独身で生きている人もたくさんいるのは、簡単には済まされない大変な出来事なのだ。全く違う環境で育った赤の他人と最後まで共に歩むのは一握りしかいない。慧となら付き合っていけるかもしれないが、もし恋人同士になった場合、失うものがある。瑠と油絵とアトリエだ。どれも爽花の癒しで何度もお世話になっているかけがえのない存在だから、手放すわけにはいかない。さらに爽花にはやるべきことがある。瑠の本当の心を覗いて、もっと近付きたい。慧は悪者扱いしているけれど、悪者だったら綺麗な油絵は描けない。「フランスの先生に忘れられている」と怯え諦めていたり、家族の誰に似てあのような性格になったのかもわからない。愛に満ちているアリアまで瑠を突き放すのも謎だ。とにかく疑問だけでストレスが堪る。瑠が言う通り放っておけばいいのに無視できない。
「どうして俺に構うんだよ」
胸の奥で瑠の声が聞こえた。慧に好かれているんだから、慧とだけ仲良くすればいいだろ。確かにそれもそうだが爽花は油彩が見たいのだ。作品だけではなく描いている瑠も見たいしアトリエは二人きりだから素の自分でいられる。爽花がどれほど絵を褒めても瑠は全く喜ばないが、少しは返事をしてほしいものだ。
「そういえば……」
ふとあるセリフが蘇った。アパートに行ってもいいかと聞かれ瑠は爽花を男扱いしていると考えた。だが「男だと思っていない」と返してきて「あの女どもには持っていないものがあるんだ」とも言っていた。爽花自身は女らしさやおしゃれだと決めたけれど、どうやらそういうことではないようだ。爽花が持っているものとは何だろう。
「うーん……。もう無理だ……」
どてっとベッドに倒れて大きくため息を吐いた。学校の勉強より難しいし、どんどん深みにはまっていって這い上がれなくなりそうだ。天井を眺めながら頭の中を空っぽにした。
水無瀬家で、一体どんな出来事が繰り広げられているのだろう。母親に育てられていないという息子。双子の兄を悪魔と呼ぶ弟。雰囲気が悪くなると我が子を追い出す母親。地獄みたいな、本当にこの世から消えてなくなりたいことがあると話していたのはこれだろうか。
とりあえずもやもやしていても仕方ないため、勢いよく起き上がって頬を両手で叩き良くない気持ちを振り払った。
「……瑠は、何のために絵を描いているのかな……」
他人に感想をもらったり評価してもらいたいわけではないのに、どうして絵を描くのか。本人に言ったら怒られるかもしれないが、はっきり言って油彩以外にも楽しい趣味は数え切れないほどある。むしろ油彩道具は値段が高いしなかなか手に入れにくいので、安くつく方がいいのにと感じてしまう。なぜ油彩にこだわるのか。油彩じゃないとだめなのか。無意識に壁の時計に目をやると十二時半を過ぎていたので、慌ててお風呂を沸かした。ベッドに潜り込み睡魔がやって来るのを待ったが頭が冴えて眠れない。うつらうつらした状態で朝になった。
学校でも体調は優れず、おまけに苦手な教科のテストがあるのを忘れていた。最近全然勉強をしていないのに、ようやく気が付いた。慧に家庭教師をしてほしいと頼みたかったが、先日冷たい態度をとって傷つけたという負い目があって、電話をかける勇気がない。案の定テストの点は四十点も行かず、誰にもバラせなかった。まだ自分が学生なのだと反省し、がっくりと項垂れた。
「瑠は、こういう目に遭わないんだろうなあ……」
独り言が漏れた。独学だからテストもないし、やりたい時やりたくない時が自由に決められる。そんな調子の瑠をアリアは叱ったりしないのか。きちんと慧は授業を受けているのにと注意しないで放っておいている。
「俺は、こうやって生きるしかないんだよ」
心の奥で瑠が呟いた。こうやって生きていくしかないという意味がわからない。他人と関わらず孤独なまま過ごすしかないと言っているのか。
「独りぼっちって辛いのになあ……。瑠はへっちゃらなんだな……」
小さく言い、首を横に振った。




