五十四話
元気そうだったため学校に来るかと思っていたが、慧はまだ休んでいた。いきなり熱が出たり体調が悪くて心配になってしまう。
「水無瀬先輩、どうしちゃったんですか?」
一年生たちが聞きに来たが、答えられず戸惑った。
「あたしもわからないの。早く会いたいよね」
「会いたいです。だってもう一カ月近く会えてないんだもん……」
うるうると目が涙で潤んでいて可哀想になった。この子たちが笑顔になるのは、あとどれくらいかかるのか。
昼休みに携帯をかけると、少し間があってから声が耳に飛び込んだ。
「なに?」
「なに? じゃないよ。また熱出ちゃったの?」
「そうなんだよ。おかしいな……」
弱弱しい口調が胸に刺さった。無意識に言葉が口から漏れた。
「やっぱり、あたしが酷いことしたからじゃないの?」
「えっ?」
「あたし、本当に慧が大事なんだよ? 嫌いじゃないんだよ? 勘違いしないでよ」
少し涙の雫が落ちた。冷たい言葉をぶつけたから、慧はショックを受けているのだ。
「違うって。それはあいつが余計な話しただけだよ。勘違いなんかしてないから大丈夫だよ」
だけど、と答えたかったが声にならなかった。涙が溢れてどうしようもない。
「泣かないで。平気だよ」
逆に慰められているのも申し訳なかった。ごめんね、と微かに伝えて電話を切った。
思いやりがなさ過ぎだ、と自己嫌悪に陥った。なぜこんな爽花を、完璧な慧が愛しているのかわからない。自分がわがままで、熱が出る罰はこちらだろうと悲しくなった。このわだかまりを解消するべく、放課後にアトリエに向かった。いつも通り、瑠が絵を描いている。まだキャンバスは色が塗られていない。爽花が手の甲で涙を拭っていると、抑揚のない口調で一言呟いた。
「また自己嫌悪か」
「しょうがないじゃん。……この世から消えてなくなりたい」
はあ、と項垂れるしかなかった。瑠にはあまり涙は見せたくないので、必死に抑えた。
「だから、お前はもっといろいろと経験して勉強した方がいいって言っただろ」
「経験って何よ。どうやって勉強すればいいの? 意味わかんない」
ちらりと視線を移し、瑠はまた呟いた。
「本当にこの世から消えてなくなりたいっていう経験だよ。相手を傷つけただけで弱くなってちゃだめだってこと。それよりもっと辛い、地獄みたいな出来事があるんだから、ちょっとしたことでくよくよするなって言ってるんだ」
「地獄みたい? 例えば?」
聞いてみたが瑠は望んだ答えを返してはくれなかった。
「例えは自分で探せばいいだろ」
仕方がないため、もう一つ浮かんだ質問を投げた。
「瑠は、地獄みたいな、本当にこの世から消えてなくなりたいって目に遭ったことがあるの?」
だが今回もダンマリで反応はなかった。諦めて俯き、小さくため息を吐いた。
「……次の絵も、誰かに見せたりしないんだ」
囁くと、ぴたりと瑠の左手が止まった。そして黙ったまま爽花に目を向けた。
「瑠は、もったいないことしてるよ。綺麗な絵を隠してるなんて。せっかく教えてあげたのに油彩の先生も残念じゃない? みんなから瑠ってめちゃくちゃ画力があるって褒められてるって知ったら、きっと嬉しいとあたしは思うけどな」
大事な教え子が活躍していたら、先生は喜ぶに決まっている。絶対に人生が明るく輝いて、幸せになれる。
「俺は、他人に感想もらうために絵を描いているんじゃない」
「じゃあ何のために描いてるの?」
すかさず言うと、瑠は意外にも驚く表情に変わった。
「感想もらうためじゃないなら、何のために描いてるの? ただの暇つぶしじゃないでしょ?」
ぐいぐいと距離を狭めて覗き込むと、瑠は首を横に振った。
「お前にはわからないだろうから、秘密にしておく」
「えー? 気になって仕方ないよ」
その時、胸のつかえが消えていると感じた。ここで瑠と会話していると、もやもやとした心が軽くなってストレス解消し、問題も明らかになっていく。不思議だが、このアトリエは爽花の癒しの場所なのだ。もちろん一人でいる時ではなく、瑠がそばにいてくれないと安心は不可能だ。
「そろそろ帰るよ。瑠のおかげでほっとした。慧に、早く治って元気な姿見せてねって伝えておいてね」
そっと言って、すぐにアトリエから出た。涙はもう流れる気配はなかった。
アパートに戻って、鞄を床に放り投げてベッドに横たわった。本当にこの世から消えてなくなりたいと感じる地獄とは何だろう。耐えきれない悲劇とは、どういったものが挙げられるか。瑠は家族と共に住んでいて素晴らしい母親もいる。父に会えないのが寂しいとかだろうか。しかし二度と会えないわけではなく、いつかは再会できる。
「先生に、もしかしたら忘れられてるかもってことかな……」
やけに暗くて沈んでいた瑠を鮮明に覚えている。日本とフランスは離れているけれど、父と同じく再会はできるだろう。悲観的になる必要などないのだ。先生と悪い関係のままで別れたとは考えにくい。仲が良くない人に、花束としてスケッチブックを渡したりは普通はしない。自分の話ではなく誰かの話を例に話したのかもしれない。
「明日は慧が学校に来るといいな……」
独り言を漏らし起き上がると、ゆっくりと台所で夕食の支度をした。




