五十三話
「母さんて、乙女キャラなんだよ。女の子大好きだし。ちょっと引いちゃう性格なんだ」
苦笑しながら慧がとなりに座った。ふわふわのソファは大人三人が軽く収まるほど大きい。
「いいじゃない。楽しいお母さんで羨ましい」
にっこりと微笑んで、深く頭を下げた。
「ごめんね。あたし、慧のこと嫌いじゃないよ。本当は好きだし大切な人で離れたくないよ。ただ恋人同士になったら関係が変わるんじゃないかなって怖くて勇気が出ないの。でも本当に……本当に大好きだから悩んだりしないで」
「悩む?」
意外そうな表情で慧は首を傾げた。爽花も驚いてもう一度言った。
「だって、学校休んでるのって悩んでるからでしょ? あたしが変なことしゃべったせいで」
「変なことしゃべった? 違うよ。ちょっと熱出ちゃって休んでたんだよ。元気になったから明日は登校できるかなって考えてたよ?」
言い終わってから、そっと耳元で囁いた。いつの間にかリビングから消えていた瑠を睨む目つきに変わった。
「余計な話したんだな。あいつの言葉は全部嘘だから、信じちゃだめだよ。悪魔のせいで酷い目に遭いたくないだろ」
そうは感じなかったが爽花は騙されやすいし、弟である慧の方が正しいだろう。だが双子の兄を悪魔呼ばわりするのは少し不快だった。
「紅茶持ってきたわよ。なあに? 怖いお話してるの?」
ひょこっとアリアが割り込んできて爽花も慧も笑顔に変わった。せっかく淹れてくれたのだから断るのは失礼だと素直に紅茶を一口飲んだ。そのおいしさに驚いて目が丸くなった。
「す……すっごくおいしいです……」
「お友だちのお土産なの。おかわりもあるからね」
平凡な爽花のために貴重なお茶を用意してくれるとは、とてもありがたかった。
「そうだ。せっかくだから夜ご飯食べていったら?」
突然の提案に首を横に振った。さすがに夕食は申し訳なかった。
「いえ、お茶だけで充分です」
「でもでも、せっかく来たんだから」
ずずいっと身を乗り出して両手を握り締めてきた。そのガラス細工の輝きに断れなくなった。
「じゃあ……。今夜だけ……」
「ねっ! みんなでご飯食べましょう。ごちそう作っちゃうからね」
爽花の答えを聞かずに、アリアはまたキッチンへ向かった。
料理中のアリアの背中を眺めて、もし生まれ変わったら次はこんな姿になりたいと願った。大理石のテーブルの上に写真立てが置いてあり、お腹のふくらんだアリアと瑠にそっくりな男性が写っていた。
「もしかしてお父さん?」
「そう。名前は潤一。潤うに数字の一だよ」
けれど潤うの文字が浮かばなかった。水無瀬家の男子は難しい名前ばかりだ。
「外国で仕事してるから家に帰ってこれないんだ。よくメールが届くけど、どっちかって言うと俺たちより母さんに会いたいみたいだな。寂しがり屋なんだよ。独りぼっちが苦手なんだ」
「寂しがり屋なの? じゃあちょっと可哀想だね」
「うん。母さんも父さんはどうしてるのかなってよく心配してるし。仕方ないんだけどね」
不思議な感じがした。父親も独りが嫌だとしたら、瑠が孤独を好むのは変だ。
「どうしてアリアさんもお父さんも独りが嫌いなのに瑠は好きなの?」
瑠の名前が出てきたせいか、少し低いトーンで慧は即答した。
「みんなから血が繋がってないんじゃないかってびっくりされるよ。間違いなく家族なんだけど……」
なぜ一人だけ性格が違うのか理解できない。育ててくれた親が明るくて穏やかなのに、無表情でとっつきにくいのも謎だ。
「おまたせ! お腹空いたでしょ。たくさん食べて」
二人の間に割り込むようにアリアが入ってきた。ダイニングテーブルには高級レストランでしか味わえない料理が、ところせましと並んでいた。全て絶品で、あれもこれもと手が出てしまう。毎日こんなにおいしい料理を食べている瑠と慧が羨ましすぎる。
「アリアさんってプロのシェフですか? 本当に、どれもおいしいです。感動です……」
「あら、ありがとう。瑠も慧も喜んでくれないから嬉しい。爽花ちゃんと一緒に料理してみたいな」
「あたしは下手だしドジだから、恥ずかしくて見せられません……」
ちょうどその時、瑠がリビングのドアを開けた。私服に着替えているが、やはり上下ともに地味な色だった。爽花の姿を見て、急に不機嫌そうな表情に変わった。
「まだいるのかよ。謝るだけって言ったのに」
「感じ悪いわねえ。別にいいでしょ。女の子に優しくしてあげなさいよ、慧みたいに。だいいちもっと愛想よくしたらどうなの?」
アリアのお叱りにぴたりと瑠の動きが止まった。ちっ、と舌打ちして、小さく呟いた。
「偉そうな口叩くな。俺を叱る権利なんか、お前にはないんだよ」
途端にアリアが悲し気に俯いて、爽花は強く怒鳴った。
「権利って何? 頑張って産んでくれたお母さんに、その態度はないよ。一生懸命育ててくれたのに、そっちこそ偉そうな口叩いちゃだめだよ」
「俺はそいつに育ててもらってねえよ。よく知らないくせに適当なこと言うな」
意味深な言葉を残して、お前らとは付き合っていられないといった感じで瑠は出て行ってしまった。
「えっ……? 育ててもらってない?」
慧に視線を移したが、なぜか慧も沈んだ顔をしていて質問できなくなった。三人とも無言なまま食事を終わらせて立ち上がった。玄関へ向かうとアリアに手を掴まれた。
「ねえ、泊まっていきなさいよ」
驚いてぶんぶんと首を横に振った。泊まるのは無理だ。
「いえ、泊まるのはちょっと……」
「だけど一人暮らしなんでしょう? 寂しくないの?」
寂しくないと言ったら嘘になる。どうしようもなく黙っていると慧が割り込んできた。
「母さん、爽花にも都合があるんだから、わがまま言っちゃだめだよ」
慧に叱られてアリアはしゅんと俯いたが、すぐに顔を上げた。
「じゃあ夏休みに泊まるっていうのはどう? 夏休みなら毎日家にいられるし、宿題も一緒にできるでしょ? ねっ、夏休みに泊まりにいらっしゃいよ」
あまりにも勢いが強すぎて素直に頷くと、アリアの瞳はきらきらと輝いた。
「よかった。まだまだ先だけど楽しみにしてるわね」
少女のように無邪気なアリアを見て、慧と二人で苦笑いした。まさかお金持ちの母親が、こんなに子供っぽくて気が置けない性格だったとは意外だった。ドアの取っ手を掴む直前に、アリアの穏やかな声が聞こえてきた。
「いつでも遊びに来なさいね。爽花ちゃんともっともっと仲良くなりたい」
その姿がイチジクと重なった。イチジクもいつでもおいでと言ってくれた。つまり爽花には家族以外に二つの居場所があり待っている人が存在しているということだ。誰もが爽花を愛して思いやり大事にしていて、固い糸で繋がっている。「ありがとうございます」と深くお辞儀をしてから外へ出た。
アパートに戻り、先ほどの賑やかな空気が恋しくて辛くなった。アリアに会って、京花とも話したい気持ちになった。鞄から携帯を出し椅子に座った。すぐに懐かしい声が耳に入って来る。
「どうしたの?」
「ごめん。……あの、お母さんって一人暮らししたことある?」
娘の突然の質問に戸惑ったのか、少し間があって答えが返ってきた。
「お母さんは寂しがり屋だったから、大学卒業するまで家にいたよ。卒業したらお父さんと二人暮らしになって、そのまま結婚したの。だから爽花みたいに家事も勉強も全部一人でやるっていう大変な思いはしなかったよ」
「じゃあ、お母さんがあたしを一人暮らしさせたくなかったのは、あたしが大変な思いするってわかってたから?」
また間があって、京花の柔らかな言葉が返ってきた。
「爽花はお母さんに似てるからね。どうして離れ離れにならなきゃいけないのって残念だったよ。爽花はお母さんと暮らすのが嫌になったのかなって」
「嫌になるわけないよ!」
大声で叫んでいた。家族との生活が不快に感じる人間などいない。いつまでもいつまでも家族のそばにいたいはずだ。
「あたし、高校卒業したら必ず帰るよ。お母さんのご飯食べたい。のんびりおしゃべりして休みたい」
「お母さんたちも爽花に早く会いたいよ。爽花は今どんなことしてるんだろうねってお父さんといつも話してるよ。きっと帰ってきたら、大人になった爽花にお父さんはメロメロになるだろうね。ちゃんとお化粧してる?」
目を丸くした。はっきり言って爽花は化粧品を持っていないし、面倒くさくてスッピンでいる方が多い。
「最近、適当になってきてる」
「なら明日から頑張りなさい。女に産まれたんだから綺麗にならなきゃ。爽花はもともと可愛いんだし」
確かに磨き上げた方が慧も嬉しいはずだ。アリアみたいに美しくはなれないが、ほんの少しでも努力するべきだ。
「うん、ありがとう」
「夜更かしすると肌が荒れちゃうから、きちんと寝るのよ」
短く言い切って、京花は電話を切った。もっと話していたいが時間が遅くなってしまう。とりあえず胸が暖かくなったので安心した。母親がいないと子供は成長しない。真っ直ぐと明るい未来を歩いて行けない。世の中でお母さんと呼ばれている人は、みんな極上の愛を溢れるほど持っている。子供を護り立派に育てていくための力が備わっている。京花は難産で苦しみに耐えながらも爽花を産んでくれたのだから、ほとんど神様だ。寂しく空しい想いを振り払って、ぎゅっと拳を作って立ち上がった。出産と同じで、今が辛くても後に幸せがやって来ると信じて、残りの学生生活を乗り越えていくのだ。




