五十二話
とにかく一番は謝るべきだと考え、慧の教室に行った。しかしクラスの生徒から「休んだ」と教えられて、残念ながらその日は無理だった。面と向かって頭を下げたいので電話はかけなかった。次の日も行ってみたが休みで、次の日もその次の日も慧は休み続けた。そしてついに二週間が経ってしまった。あまりにもおかしいので、放課後にアトリエへ走って瑠に質問した。
「どうしちゃったの? 慧、全然学校に来ないじゃない。風邪でもひいてるの?」
家族の瑠なら理由を知っている。くるりと振り返り瑠は呟いた。
「風邪ではないけど、具合悪そうな顔してたな。まあ心配はしなくていいだろ」
慧も瑠がストーカー行為を受けていた時心配しなくていいと言っていた。本当に仲のよくない双子だ。
「もしかして慧もストーカーされてるんじゃ……」
「それはないだろ。あいつは女の扱いに慣れてるし、うまい言い訳でも作って簡単に逃げられる男だからな」
確かに慧が女の子に囲まれ追いかけられる姿は想像できなかった。ではなぜ苦しんでいるのか。
「……慧、何か言ってなかった?」
「何か?」
「うん。風邪でもストーカーでもないなら、どんな出来事があったのか聞きたいよ。教えてほしい」
だが瑠は首を傾げて、あっさりと答えた。
「自分で調べればいいじゃないか。便利なもの持ってるだろ」
携帯を使えという意味だ。一人で努力すると決意したばかりなのに、さっそく甘えている。
「じゃ、じゃあ、今日の夜電話かけてみる。解決できるかわからないけど、少しは元気になれるよね」
ぐっと拳を作って握り締めた。瑠は反応なしで、ゆっくりとアトリエから出た。
遅すぎも早すぎもよくないと八時ちょうどに電話をかけた。ボタンを押す指が震えていたが、勇気を持って耳に当てて静かに待った。けれど慧の声は聞こえない。普段ならすぐに出るのにどうしたのか。一旦切って、番号を確認しながらもう一度試したが変わらない。二度三度と繰り返しても同じ結果だった。風呂に入っているのかもしれないと予想して一時間後にまたかけたが、やはり出てくれない。これ以上は迷惑だと諦めて明日に回すことにした。
翌日も学校は休んでいて、クラスメイトも担任教師も心配していた。一年生たちは「いつになったら水無瀬先輩に会えるの」と暗くなっていた。慧は常に人気者でみんなに愛されているのだと気が付いた。逆に瑠は誰とも関係を持っていないため、ストーカーで家に引きこもっていても心配したのは爽花だけだった。昨日と同じく八時に電話をかけてみたが状況は変わらなかった。携帯の電源を切っているのか、それとも爽花を無視してあえて出ないのかはわからないが、一言でも構わないから声を聞かせてほしかった。
「……どうしたんだろう……?」
やはりストーカーされているのではと疑問が生まれた。瑠はああ言っていたが、やはり慧も被害に遭っているのではないか。邪魔をする女の子たちが憎く、けれど反撃もできずにただ黙っているのが空しくて堪らない。不安でろくに睡眠もとれていない。爽花の方が具合が悪くなりそうだ。
助けを求めるためアトリエに行った。やれるべきことはすべてやったのだから、瑠も手を貸してくれるはずだ。ドアを開けると瑠はキャンバスに鉛筆でラフを描いていた。
「慧、何度電話かけても出ないの。無視してるのかな……」
弱弱しく呟くと、手を動かしたまま答えを返してきた。
「自分が話した言葉は覚えてるのか」
「えっ?」
「お前があいつに話した言葉だよ。どうとでもとれる話をしたんじゃないのか? もっと綺麗な女の子と付き合う方が幸せだとか。それってすでに自分は好きな男がいるから他の相手にしてくれって避けてるみたいじゃないか。しかも散々世話してやってから突き放されたとしたら? たくさん金使ってデートにも誘ってやったのに、最後はこんな仕打ちかよってイライラもするだろ。悔しくて、だけどまだ愛は残ってるから怒鳴ることもできなくて勉強なんか一つも頭に入らない。こっちは全然悪気はないけどあっちにはよくない印象に変わる言葉ってけっこうあるんだぞ」
確かによく考えると悪い意味にもなる。こちらは傷つけないと思っていても、相手には正反対の印象に聞こえる場合もある。
「そんな……。あたし、そんなつもりじゃ……」
「好きか嫌いかもあやふやで、さっさと決めてほしいって辛くてしょうがないんだろうな。まだ彼氏は必要ないのか? 娶るまで言われてるのに」
一気にまくしたてられて、がっくりと項垂れた。知らずに慧を追い詰めていたのだと気付かなかった。
「慧のことは好きだよ。でも友だちってだけで、恋人同士にはなりたくない」
素直に答えて、さらに俯いた。自己嫌悪に陥って、ぎゅっと目をつぶった。
「……お前は、油彩絵具にそっくりだな」
「えっ? 油彩絵具?」
顔を上げて、じっと瑠の顔を見つめた。小さく頷いて瑠は続けた。
「油彩絵具は、服に付くと普通の洗濯じゃ落ちないんだよ。特別な液を使わないと。使っても跡は残るけどな。お前も普通の告白や口説きじゃ恋に落ちない。特別な誰かじゃないと」
そういえば、まだ慧とも出会っていない頃、カンナに爽花は特別な力を持っていると言われた。特別な力、特別な誰か。意味が理解できないまま心に重なっていく。
「その特別な誰かが、あたしの運命の人なのかな?」
「さあな。本当の恋愛をしたいなら探してみればいいだろ」
素っ気ない態度で、また俯くしかなかった。不安定な状態でようやく見つかった言葉を呟いた。
「慧に謝りたいよ。いつになったら学校に来てくれるのかな」
それは勘違いだと伝えたら悩みも解消するはずだ。慧の笑顔をまた見たい。傷付いたままでいてほしくない。
「たぶん来ないな。お前が家に行かない限り」
「家って……瑠たちの家に?」
ぎくりとして冷や汗が流れた。平凡な爽花がお金持ちの水無瀬家の門をくぐるなど許されない行為だ。
「喫茶店とかでいいじゃない。わざわざ家じゃなくたって」
「謝りたいなら家に行くしかない。別に襲ったり戦ったりするわけじゃないんだから怖がらなくてもいいだろ」
もちろんそれはわかっているし母親は愛に満ちていて優しいとも聞いているが、ドジなところを晒したらどうしたらいいのか。お金持ちの家は大抵しつけが厳しく、だから瑠も慧も非の打ちどころがなく立派なのだ。マナーなどがなっていなかったら鋭く睨まれるに違いない。なぜこんなだめな娘を連れてきたのかと瑠が叱られる恐れもある。門前払いで中に入れてもくれないかもしれない。爽花を快く受け入れてくれる可能性は低い。
「ちょっ……ちょっと待ってよ。心の準備ができてないよ……」
「怖いならついて来なければいいだけだ。もう帰るぞ」
爽花の迷いをよそに瑠は帰り支度をしてドアを開いた。慌てて爽花も遅れないように走った。
水無瀬家は電車で一駅先の街にあるらしく、緊張でガチガチになりながら乗った。駅から二十分ほど歩いた場所に大豪邸が建っていた。三階建て、手入れの行き届いている庭、高級車二台。相当な金持ちだと家が証明している。爽花のアパートが十個ほどすっぽりと収まる広さで体が凍り付いた。ドアを開けて、玄関ですでに神々しい輝きに包まれた。昼間のように明るくて、有名な絵が飾ってあったり骨董品の置物も床に並んでいる。
「す……すごい……。豪華すぎる……」
「そうか? 普通だと思うけどな」
「普通? これが普通なの? ちょっとありえないよ、それは」
突然、一番近くの部屋から茶髪の少女が飛び出してきた。
「お帰りなさい。遅かったわねえ」
「まだ六時にもなってないぞ」
靴を脱ぎながら、瑠はぶっきらぼうに答えた。可愛い少女は怒ったように腕を組んだが、隅に立っている爽花に視線を移してガラス細工の瞳を大きくした。
「あら? あなた……」
「あっ……あのっ……。あ……あたし、新井爽花っていいます。は……初めまして……」
丁寧にお辞儀をすると、少女は駆け寄って両手を握り締めた。
「あなたが新井爽花ちゃんね。慧からお話は聞いてるわよ。やっと会えた。私は水無瀬アリアです。瑠と慧のママです」
「えっ? マ……ママ? お……お母さんですか?」
「そうよ。お母さん。もうおばちゃんで嫌になっちゃうわ。爽花ちゃんみたいに可愛くなりたい」
ふう、とため息を吐いたが、肌は雪のように白いし腰まで長い茶髪には滑らかにウェーブがかかっている。甘い香水の香りも漂って、どう考えても高校生の息子がいる母親には見えない。化粧などで若さを作っている感じではないし、日本語を流暢に話せるのもすごい。
「さあ、入って。一緒にお茶飲みましょう。お菓子も食べて、ゆっくりしていってね」
腕を引かれて慌ててリビングに行き、天井のシャンデリアや大理石のテーブルに驚きが隠せなかった。ペルシャ絨毯が敷いてあるフローリングにはホコリ一つ落ちていないし、まさに外国のお城だ。
「どうしたんだよ。お客さんでも来たの?」
慧も奥から出てきて、お互いに目を丸くした。
「あれ? 爽花?」
「うん、お邪魔してます……」
「ようやく爽花ちゃんが遊びに来てくれたのよ。ほら、二人ともソファに座って。紅茶持ってくるわね」
うふふっと微笑みウインクをしてから、アリアはキッチンへ消えた。




