四十九話
春休みが終わり、爽花たちは二年生に進級した。森羽高校では学年が上がるたびクラス替えがあって、今年は爽花は三組、慧は二組、カンナは四組になった。ざっと表を確認し、もう一つの水無瀬を探したが慧の名前しか書かれていない。瑠はどんな学生生活を送っているのかを知らないのに気が付いた。いつどこで勉強しているのだろう。謎をそのままにしたくないため、さっそくアトリエへ向かった。廊下からすでに油彩独特のニオイが漂っていた。ドアを開くと、待ち続けていた光景が広がった。
「瑠」
そっと呼ぶと瑠は振り返って、爽花の方に視線を移した。
「来たのか」
「久しぶりだね。平気とか言ってたけど、やっぱり油絵描きたかったでしょ?」
となりの椅子に座り、ふう……とため息を吐いた。瑠も大きなキャンバスをじっと眺めた。
「ねえ、瑠ってどこのクラスで授業受けてるの?」
質問した内容が意外だったのか、瑠は珍しく驚いた表情に変わった。
「どこのクラス?」
「だってクラス替えの表に名前なかったから」
覗き込むようにもう一度聞くと瑠は即答した。
「家で勉強してる。授業受けるよりずっと楽だしテストとか面倒くさいし。学校はあくまでも油絵を描くだけにしてる。校長からも許可されてるし、むしろ使ってくれた方が嬉しいって喜んでたから文句もないぞ」
「へえ……。独学なんてすごいねえ……。難しい問題とかはお母さんに頼んだり?」
悪気はないのに軽く睨まれた。不機嫌な想いが痛いほど伝わった。
「そんなことはしない。あっちだって断るに決まってる。俺の先生はあの人だけだ」
以前話したフランスに住んでいる油絵の先生だ。遠くへ行っても覚えていてくれと花のスケッチブックを渡した。それなのに瑠は忘れていると諦めて落ち込んでいる。日本とフランスの距離は相当あるけれど悲観的になる必要はないはずだ。先生だって、大事な教え子を簡単に記憶から失くすとは思えない。瑠はとんでもない勘違いをしているのだ。会えない日々が多すぎて、ただ暗くなっているだけだ。
「そっか。本当に瑠って独りが好きだよね。もっと誰かと仲良くすればいいのに」
ふん、と横を向いて瑠は言い返した。
「今さら友人なんか作れないだろ。あの馬鹿が悪口言いふらしてるから、俺のことを怖がって近づく奴なんか一人もいねえよ。こっちが仲良くしようって思っても避けられるに決まってる」
「だけど、あたしもイチジクさんも普通にしゃべってるじゃない。付き合うの慣れてないから緊張しちゃうだけだって。勇気出してみれば」
「余計な話するなら邪魔しないで帰ってくれ。無駄な時間作りたくない」
びしっと厳しく叱られてしまい、むっとして爽花も大きな声を出した。
「せっかく瑠のために励ましてるのに。どうしてそうやって殻にこもっちゃうのよ。全部一人でって考えちゃうの?」
けれど瑠は筆を持ち、絵画の世界に入ってしまった。仕方なく立ち上がりアトリエのドアを閉めた。
「何であんなに頑固なんだろう……」
がちがちに固まった心の扉は、ちょっとやそっとじゃこじ開けられない。原因は慧なのか、油絵の先生か。
「……お母さん?」
ふいに独り言が漏れた。お母さんと聞いただけで、かなり不快な顔をしていた。油絵の先生ではなく母親の方と嫌な思い出があるのかもしれない。慧は家族想いで愛に満ちていて優しいと教えてくれたが、最後に「俺は」という不思議な言葉を付け足していた。慧はそう感じるけれど瑠は違うイメージで母親を見ているのだろうか。
「慧しか可愛がってないわけないもんなあ……。お腹を痛めて頑張って産んだ子供を一人しか愛さないなんて酷い親はいないし。……うーん……」
悶々と悩んでもしょうがない。とりあえず二年生に進級できたと安心して終わりにした。
寝る直前に携帯が鳴った。ベッドから起き上がり「もしもし」と言うと、京花の柔らかな声が耳に飛び込んだ。
「爽花、もう二年生だね」
「うん。もっともっと忙しくなるよ」
「もし大変だったら助けに行くよ。無理しないで電話かけなさいね。家族なんだから秘密とか作っちゃだめだよ」
家族なんだから、という響きが胸を暖かくした。自分には居場所があり待っていてくれる人がちゃんといるのだと心が軽くなる。
「……わかった。ありがとう。暇な時ができたら帰るね」
「そうだね。じゃあおやすみ。夜遅くに電話かけてごめんね」
昔から変わらない京花の言葉で体中が愛で満杯になった。ほんの少し会話するだけで明日も頑張ろうという力が生まれて不安などが一気に消え去る。
「……お母さん……。会いたい……」
囁いてベッドに潜り込んだ。幼い頃、京花に抱き締めてもらいながら眠ったあの日に戻りたいと薄っすらと願い、静かに目を閉じた。




