四十八話
はあ、と小さくため息を吐いた。悩みや迷いではなく、瑠とキスした余韻に浸っているのだ。もっと言うと全裸を見られたことも含まれている。全身が燃えるように熱くて、水を飲んだり氷を額に当てたりいろいろと試してみたが効果はゼロだ。初めての経験にどきどきしてしまい、ふわふわ浮かんでいるような感じがする。そして慧からの娶るの言葉も頭に蘇り、恥ずかしくなってくる。
「ああ……。少女マンガのキャラみたい……」
頬を両手で覆い、またため息を吐いた。突然、まったりとした雰囲気を裂くかのように携帯が鳴った。びくんと体が震えて慌てて携帯に耳を当てると慧の声が聞こえた。
「あっ、今日暇かな?」
以前冷たく誘いを断ったのを思い出した。もうストーカー集団から逃れたので、柔らかな口調で答えた。
「暇だよ。二人でお茶しようか?」
「よかった。また忙しいって言われるかもって不安だったからさ」
「ごめんね。じゃあ駅前の喫茶店で待ち合わせでいい?」
「わかった。爽花に会えると嬉しいよ」
先ほどとは違う鼓動が加速した。しっかりとバッグに財布を入れ、奢ると言われても甘えないと決意した。早足で行くと慧はドアのそばに立っていた。どこからどう見ても美男子で、なぜ平凡な自分を愛してくれるか不思議で仕方がない。爽花の姿に気づくと輝くような笑顔になった。
「さっそく入ろうか」
慧が話し始めたが、爽花は確かめたいことが一つだけあった。
「じっとして」
目を大きくして一歩一歩慧に近寄る。逆に慧は後ずさった。
「えっ? な……何?」
「慧ってコンタクト付けてるんでしょ? うーん……。よくわからないなあ」
むむむ、とかかとを上げて距離を狭める。慧は苦笑して爽花の髪を撫でた。
「あのね、コンタクトって小さいし薄いし透明で、外からじゃ確認できないんだよ」
「あっ……。そ、そっか……」
すっかり忘れていた。言われてみればその通りだと恥ずかしく頬が赤くなってしまう。慧にぎゅっと抱き締められて逃げられなくなった。
「爽花は可愛いなあ……。小っちゃくって子供みたいだし」
耳元で囁きが聞こえてどくんどくんと心臓が跳ねる。慧の愛が心の中に注がれてうっとりとした。けれど彼女になってはいけない。彼女になったら失うものが存在しているから「あたしも好きだよ」と伝えられない。いつまでこの状態でいられるかわからなかった。
「さて、じゃあ入ろう」
もう一度慧が言い頷いた。もう少し暖かな愛に包まれていたかったのは隠した。
注文が済むと、爽花の方から切り出した。
「慧のお母さんってどんな人?」
美しい双子を産んだ女性について詳しく知りたかった。瑠はダンマリだが慧は素直に答えてくれる。
「どんな人って……。普通のフランス人だよ」
「フランス人?」
驚いて勢いよく立ち上がった。やはり混血だった。
「慧って日本とフランスのハーフだったんだ!」
「あれ? 言わなかったっけ?」
「言ってないよ。フランス出身で、日本にいるのが一番少ないってことしか聞いてないよ。……まあ、どう考えても両親が日本人って感じじゃなかったけど」
つまり瑠もハーフだ。肌が白くてスラリとした姿は母親譲りだろう。背が高いのは父親が長身なのかもしれない。二人とも親のいい部分をうまく合わせて産まれてきたのだ。
「そうか、ごめん。俺の母さんは普通のフランス人だよ。綺麗好きでおしゃれが趣味。すごく家族想いで愛に満ちてる優しい性格。ちょっと心配性だけどね。とにかく自慢の母さんだって思ってるよ。俺は」
「俺は?」
不自然な最後の言葉が胸に引っかかった。俺は、とはどういう意味だろう。
「……それって」
質問をしようと口を開いた時に注文したものが運ばれてきた。いつも余計な人物が割り込むたびにイライラしてしまう。慧は聞こえなかったフリをして、そっと一口飲んだ。
爽花の母親の京花も、おしゃれは趣味ではないが家族想いで愛に満ちて優しい。子供を持つ世の中の女性はみな性格が似ているようだ。
「爽花のお母さんも教えてよ」
突然身を乗り出して慧が見つめてきた。驚いたがすぐに笑顔になった。
「あたしのお母さんも普通だよ。あんまり美人じゃないけど明るくて元気な性格。あたしの産んだ赤ちゃんを抱っこするのが一番の願いみたい。まだ高校生だからわからないけどね。あと出産が酷かったらしくて、苦しんだんだって。痛くて辛くて泣いたって怖い話されて、ぞわぞわしちゃったよ」
そんな想いをしながら精一杯耐えて、爽花を育ててくれた。母親とは、絶対に離れない太い紐で繋がっていて死ぬまでそばにいる人だ。心の底から愛してもらって子供はすくすくと成長し、立派な大人になれる。たとえ同じ場所に住んでいなくても紐がほどけたり切られたりしない。
「全然会いに行ってないや。どうしてるかな。お母さんもお父さんも」
急に寂しい気持ちに駆られた。一人暮らしをしたいと考えなければよかったという後悔もぼんやりと浮かんだ。京花が一人暮らしを猛反対したのは女の子が一人で暮らすなんて危ないという気持ちではなく、ずっと一緒に過ごしたいからだったのかもしれない。
「俺も父さんに会ってないよ。仕事で海外にいるからしょうがないけど、たまには声聞きたくなるね。家族って、本当にかけがえのない宝物だよ」
弱弱しい口調でどきりとした。その諦めた残念そうな表情が瑠にそっくりだったからだ。アパートに泊まった夜の瑠の態度はおかしかった。とても暗く沈んだ姿は今でも鮮明に覚えている。かといって根掘り葉掘り質問を重ねるのは気が引けるし無関係だから黙るしかない。放っておくことしかできないのだ。また、瑠は爽花に一人で暮らすのは大変かと言ってきた。もしかしたら慧という敵がいる家から飛び出して、自由なところへ移りたいと思っているのかもしれない。悲しくもないのに、涙がぽろりと零れた。
「どうしたんだよ?」
慧が驚いた顔をして、ぶんぶんと首を横に振った。
「ごめん。なんかネガティブになっちゃったの。びっくりさせてごめんね」
「いいよ。でも、とりあえず店から出てからにしてくれるかな」
周りの客にバレないようにという意味だ。うん、と頷いて椅子から立ち上がった。財布を持ってきたのに結局奢らせてしまって情けなくて仕方がなかった。
そのまま別れるのはもったいなかったが爽花の涙が止まらないため帰ることにした。アパートの玄関で「ただいま」と呟いたが、京花の「おかえり」という返事は聞こえない。孤独で堪らなくなり手で涙を拭ってから中に入った。椅子に座って携帯のボタンを押した。京花の声を聞いて安心したい。けれど最後のボタンを押そうとして指が動かなくなった。もし声を聞いたら二度とアパートに戻れなくなると感じた。母親の暖かさに触れて、学校も慧も瑠も捨てて実家に行ってしまう。高校を退学するわけにはいかない。卒業するまでここにいなくてはだめだ。自分で選んだ道なのだから途中で抜け出して逃げてはいけないのだ。携帯をテーブルに置いて、ぐったりと項垂れた。カンナも同じく一人で頑張っているのだと心に強く言い聞かせて顔を上げた。もし愛が足りなくなったら慧に頼れば平気だ。アパートの中では独りぼっちでも、爽花と繋がっている人は大勢いるのだ。




