表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/132

四十七話

胸騒ぎがして、ある夜目が覚めた。どきどきと心臓が跳ねて、おかしいほど体が熱くなる。止めようとしても全く収まらず、ベッドの中で震えていた。朝日が差し込み勢いよく起き上がると、台所で水を飲んで落ち着けと自分に言い聞かせてみたが、どくんどくんと鼓動が速くなるばかりだ。時計が六時になったのを確認して、バッグも持たずに外に飛び出した。あてもなく前を向いて走ると、火照った頬を冷たい空気が撫でていく。運動は苦手で嫌いなのに動きたくて堪らない。

 ようやく足が止まったのは、一度も来たことがない眼鏡店だ。爽花は視力がよく用事もないしそもそもバッグを持っていないのに、迷うことなく中に入った。奥に進み、大きな背中にびくっと全身が震えた。

「る……瑠……」

 声をかけると素早く振り返った。まさか爽花がそばにいるとは考えていなかったらしく、珍しく驚いた表情をしていた。

「どうしてここにいるんだ」

「それはこっちのセリフだよ。どうしてこんな朝早くに眼鏡屋さんに来てるの?」

 戸惑ったように視線を逸らし、ぼそりと呟いた。

「女どもがつきまとってくる前に終わらせようと思って」

 瑠が手に持っているものを見て、頭にハテナが浮かんだ。

「瑠ってコンタクト付けてたの?」

 携帯を使っていないし視力が悪くなりそうなことは一つもしていない。ということは。

「生まれつき遠視なんだよ。ちなみにあいつは画面の見過ぎで中学に入ってから近視になったんだ」

「へえ……。慧も……。で、眼鏡を買いに来たのね」

「買いに来たというより換えに来た」

 よく意味がわからず首を傾げた。自分には関係のない話だから仕方がない。その想いが届いたのか、瑠はもう一言付け足した。

「コンタクトから眼鏡にすれば、バレないだろ」

「バレないって……。女の子たちに?」

 きょとんとすると、瑠はしっかりと頷いた。突然、ふふっと笑ってしまった。

「いやいや、コンタクトから眼鏡に換えてもバレるよ。ふうん……。けっこう瑠って子供っぽいね」

「子供っぽいって何だよ。とにかくあいつらから追いかけられるのは嫌なんだ」

 それは爽花も狙われているため痛いほどわかる。しかしウケてしまう。

「瑠がそう思うなら眼鏡にしてもいいよ。だけどたぶん効果はないよ」

 むしろ逆にかっこよくなる。最近、眼鏡をかけた男子が人気なのをカンナに教えてもらった。爽花は男に興味がないので、いちいちそういった感情は生まれない。

「……じゃあ金の無駄遣いになるな。このままでいいか……」

 爽花の意見を素直に聞いたのが意外だった。ほんの少し役に立てたかもしれないと嬉しい気持ちが生まれた。眼鏡を棚に戻して店から出る瑠に遅れないよう、急いでついて行った。

「目が悪いのって辛い?」

 背中から質問をすると、前を向いたまま瑠は即答した。

「慣れてるから辛くはないな。生まれつきだからしょうがないし。あいつは面倒だって文句言ってるけど」

「そっか。あたしも携帯の使い過ぎで視力低下しないように気をつけよう。せっかくいい目を悪くするなんてもったいないもんね」

「そうだ。母親がくれた大事なものなんだから失くすなよ」

 柔らかい口調にどきりとした。いつもとは違って穏やかな態度の瑠は初めてだ。

「ねえ、瑠のお母さんってどんな」

「あっ、いたよ! みんな!」

 遠くから女の叫び声が聞こえた。目を向けるとストーカー集団が二人を取り囲むように並んでいた。以前よりも人数が増えている。きっと五十人はいるだろう。

「こいつが、あの女だよ! 見てよ、このおばちゃんみたいなセンスなしのダッサい服! 醜い顔! チビだしブスだしみっともないったらありゃしないよね! メイクだってしてないよ、こいつ! あたしらの方が絶対可愛いしおしゃれだよね!」

 リーダーが大声で罵倒し、緊張で全身が震え始めた。どうやら二人が歩いている時を待ち伏せていたようだ。

「ねえ、イケメンさん、こんな奴より、あたしに乗り換えた方が幸せですよお。こんな女がとなりにいて、お友だちから呆れられてません?」

 ぶりっ子の甘える口調で瑠に近付く。代わりに瑠は後ずさった。

「イケメンさん、ちゃんと選ぶ女の子確かめた方がいいですよ。こいつとあたし、どっちが可愛いと思います? 綺麗でおしゃれな女の子と付き合わないとだめですよお。ダサい服の女なんか放っておいた方がいいですよ」

 もちろん瑠は答えずその態度が気に障ったのか、リーダーは睨みつけて、爽花を指差して金切り声を出した。

「キスして!」

「えっ? キ……キス?」

「恋人同士ならキスくらい平気でできるでしょ? もしキスしたら諦めて二度と話しかけないから。ほら早く! キスして! 恋人同士っていう証拠見せてよ!」

 衝撃で二人とも固まってしまった。まさかキスしろと命令されるとは夢にも思っていなかった。

「早くやってよ! キスしないなら付き合ってるの嘘だってことだよね? さっさとしてよ!」

 こんな街中でキスなどできるわけがない。朝早いので周りにいる人は少ないが、いくら何でもキスは無理だ。けれど逃げるわけにはいかず拳を作って唾を飲み込んだ。瑠はかなり焦った表情で、暑くもないのに汗を流していた。覚悟を決めて、爽花の両肩を掴んで耳元で囁いた。

「最初で最後だからな。フリだからな」

「わかってるって。一瞬だけ、ちょっと触れるだけにしよう」

 素早く計画を立てて、ぎゅっと目をつぶった。瑠との距離が縮んでいく。

 見える景色が真っ暗なためか、なぜか落ち着いている自分が不思議だった。唇が重なった瞬間、どきりと心臓が跳ねて体が炎のように燃え上がった。しばらくその状態のままでようやく離れると、安堵の息を吐く前にいきなり頬をバッグで殴られた。続いて胸をどつかれ地面に倒れた。

「な……なに本気でキスしてんの……? 恋人同士なんて……嘘でしょ……」

「えっ……? それって……どういう」

 爽花が言い終わる前に瑠が前に出てきた。きつく睨みながら低いトーンで怒鳴った。

「あんた、さっきキスしたら諦めて話しかけないって言ったよな。言ってることとやってること反対だろ。もうお前らとは無関係だ。さっさとどこかに行って、そのつら見せるな。それから、こいつに謝れ」

 瑠に引っ張られてよろよろと立ち上がった。ぐいぐいと背中を押されリーダーに近付く。

「バッグで殴って胸どついて、暴言吐いて申し訳ございませんって謝れ。早く」

 軽蔑の口調に、リーダーはわなわなと震えた。

「ど……どうして、あたしがこんな醜い奴に」

「勘違いしてるけど、お前らの方がずっと醜いぞ。娘がこれほどドロドロに汚れてて、親は泣いてるだろうな」

 さらにリーダーの震えは増して、顔色も土気色になっていく。

「嘘だ……。納得できない……。あたしたちが負けるなんて……。こんなブス女に」

「も……もうやめようよ。これ以上関わってたら、変な噂流れそうで怖いよ」

 集団の中の一人が呟いた。嫉妬の表情でリーダーは振り返って、あっという間に逃げ去ってしまった。謝罪はなかったが、とりあえずつきまとわれなくなったと確信した。

「俺たちも行くぞ。噂が立てられたら面倒だからな」

「そ、そうだね」

 慌てて頷いて、その場から早足で離れた。




「じゃあ、ここでお別れだ」

 しばらく歩いてぴたりと立ち止まった。なぜか視線を逸らしている。爽花も真っ直ぐ顔を見ることができない。

「う……うん……。眼鏡買わなくて正解だったね」

「そうだな。……あっさりと悩みって解決するもんなんだな」

「あたしもびっくりしてる。急に心が軽くなったよ」

 どきどきと鼓動が速くて息苦しい。邪魔な人物は消えたが逆に新しく秘密が生まれてしまった。

「あの……さっき……のは」

「誰にもバラすなよ。特にあの男には」

「わかってるよ。頑張って隠し通すよ」

 慧の疑う姿が蘇る。先日の風呂事件も今回のキスも絶対に口外してはいけない。本当に殺人鬼と化すかもしれない。どれも二人で決めた出来事ではないが、そんな言い訳は通用しない。

「春休みが終わったら学校に来るよね。アトリエで絵の続き描くよね」

 確かめるために聞くと、瑠は大きく頷いた。やっと凝り固まって暗かった心が、ふわふわに癒されるのだと嬉しくなった。きっと瑠も同じ気持ちだろうと想像した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ