四十五話
「……そろそろお風呂に入ろうか」
時計の針が七時半を指しているのを確認して、そっと言ってみた。瑠も同じだったのか、迷うことなく頷いた。
「俺は後でいいから先に入れよ。ゆっくりで構わないからな」
「えっ? そう? じゃあお言葉に甘えて」
えへへ、と笑ってから洗面所へ移動し、しっかりとドアを閉めた。何度も何度もドアが開いていないか繰り返し見て、服を脱ぎ始めた。最後にもう一度ドアに目をやって、音を立てずに浴室へ足を踏み入れた。ゆっくりとと言われたが余裕など全くないため、適当に済ませて終わりにした。ふう、とバスタオルで全身を拭きながら、ふとある重大なことに驚いた。着替えの下着やパジャマを用意するのを忘れていた。取りに行くには居間を通らなくてはいけない。現在、その居間には瑠がいる。つまりタオル一枚の姿を瑠に晒さなければいけないという意味だ。がたがたと震えて、熱く火照った体が冷たくなっていく。もし慧にバレたら、どんな仕打ちを受けるのか怖くなった。会話するだけで睨まれるのに、露わな爽花を見たなど発狂するに違いない。だがいつまでもここにはいられない。もしかしたら瑠の方から声をかけに来るかもしれない。試しにドアを少し開いて、じろりと廊下を確認した。ちょうどよく瑠がトイレにでも行ってくれればいいのだが、その気配はなく緊張でがんじがらめになった。
「どうしよう……。あたし馬鹿だ。どうして持ってくるの忘れちゃったんだ……」
ぶつぶつと嘆いても状況は変わらない。せっかく洗ったのに冷や汗がだらだらと流れていく。
「……走れば大丈夫かな。走るの遅いけど、本気を出せばうまく行くんじゃ……」
ぐっと拳を握り、抜けていく力を強くした。バスタオルをきっちりときつく巻き付けて、勢いよくドアを開けた。しかし廊下の何もない場所で足が滑り、派手に転んでしまった。
「いたた……。やんなっちゃ」
言いかけて、石のように固まった。居間から瑠が出てきたのだ。さらに巻いていたタオルが落ちて、一糸まとわぬ状態になっているのに気が付いた。あまりにも衝撃が強すぎてお互いに黙るしかない。瑠に頭のてっぺんからつま先まで眺められて、信じられない想いで胸がいっぱいになった。
「……危ねえな。怪我したらどうするんだ」
「いや、あたし、ドジだから……」
慌てて立ち上がろうとしたが、完全に体力が消えてよろけて瑠に抱き付いた。あわわわわと離れようとして、またどてっと倒れてしまう。
「ほら、掴まれよ」
瑠に手を差し出されて握り返そうとしても、恥ずかしさのあまりうまく動かせない。情けなく廊下に倒れたまま意識を失ってしまった。
しばらくして、はっと起き上がった。廊下にいたはずなのにベッドの上に寝ていた。服は着ていないので、ある恐ろしい考えが浮かびあがった。
「やっと目が覚めたか」
すぐ横から瑠の声がして振り向いた。布団で裸を隠しながら、震える口調で聞いた。
「……もしかして瑠がベッドまで運んだの?」
「そうだよ。ずっとあのままじゃ風邪ひくだろ」
確かにその通りだが、信じられなくてつい怒鳴ってしまった。
「じゃ、じゃあ、あたしの体触ったんだ! な……何てことを……」
「しょうがないだろ。だいいちどうして服着てないんだよ」
「持っていくの忘れちゃったの。走れば大丈夫だって思ってたのに……」
悔しくて涙が溢れた。悪夢であってほしいと願ったが、紛れもなく現実だ。
「あいつがそばにいないだけよかったな。絶対にバラすなよ。バレたら命はないと思えよ」
とんでもない目に遭うのは瑠もすでに知っている。双子の弟なのだから知っていて当然だ。
「さ……さすがに殺したりはしないよ。でも……」
二度と瑠に近付くな、アトリエに行くなと厳しく監視されるだろう。嘘や誤魔化しでは逃げられない。アトリエを失ったら、癒されず息苦しい日を送らなければいけない。
「さっさと服着ろよ。俺はまだ風呂に入ってないんだぞ。お前が起きるまで待ってたんだ」
瑠なりに気を遣ってくれたようだ。うん、と素直に頷くと、瑠は部屋から出て行った。
パジャマに着替え、一体どうやって運んだのか想像した。ずるずると引きずったのか、それとも他のやり方か。いずれにせよバッチリ爽花の裸体に触れたのは間違いない。全身が炎のように燃え上がって、きゃあああと枕を抱き締めてベッドの上をごろごろと転がった。まさか瑠に晒してしまうとは、女にとって一番の過ちだ。誰にも明かせない秘密を作ってしまったのが未だに信じられない。慧だけでなく、カンナや京花にも話せない秘密だ。隠し通せるか不安だが、弱気になってはだめだ。油断は禁物だ。
「なに叫んでるんだよ。近所迷惑だぞ」
いつの間にか瑠が戻ってきた。風呂上がりでいつもとは違う男らしい瑠にどきどきと鼓動が速くなった。別にこれからいやらしいことをするわけではないのに興奮してしまう。
「……さて、どうやって寝たらいいかな」
瑠が呟いて、ベッドが一つしかないのに気が付いた。慧とは抱き合ったが、さすがに瑠とは抱き合えない。もう秘密は作りたくない。
「俺は椅子に座って寝て、お前がベッドでいいか」
「ええ……。椅子で寝られる?」
「何だよ、一緒にベッドで寝たいのか? けっこう大胆だな」
ぼっと頬が赤くなって、手を横に振った。
「だ、だって、一応お客なんだから、固い椅子で寝かせるのも失礼じゃない。あたしが座って寝るよ」
「そんなことしたら慧に怒鳴られるだろ。よくもベッドを奪ったなって絶対に言うぞ」
確かにその通りだ。爽花はベッドで瑠が椅子しか選択肢はない。
「俺はどこでも熟睡できるから心配するな。アトリエで寝ることもあるんだ」
ぶっきらぼうに言って、面倒くさそうに息を吐いた。仕方なく爽花は口を閉じて頷いて話は終わった。
時計の針が一時半を過ぎて、爽花はベッドへ潜り込んだ。早く眠ろうと考える度に、先ほどの瑠の言葉が蘇る。大事な教え子を忘れてしまう先生などいるのだろうか。どうしてあんなにも落ち込んでいたのか。数時間その状態でいたが、我慢できずに部屋のドアを開いた。手探りで瑠の元へ移動し肩を揺すった。
「……何だよ……」
うつらうつらした声が微かに聞こえて、そっと囁いた。
「あたし、彼女になるよ」
「えっ?」
「だから、瑠の彼女になるよ……」
もう一度繰り返し、瑠はあまりの衝撃を受けて、真っ直ぐ立ち上がった。




