四十三話
「これからお前のアパートに行っていいか」
「えっ?」
一瞬目の前が真っ白になった。面倒くさそうに瑠は繰り返した。
「お前のアパートに行ってもいいかって言ったんだ。聞こえなかったのか」
どきどきと鼓動が速くなった。アトリエ以外で二人きりになるのは初めてだし、瑠の方から頼ってきたのが驚きだ。
「ど……どうして……」
「いいのか悪いのかって聞いてるんだ。理由はいらないだろ」
充分いると考えながらも、素直に頷いた。
「……いいよ。だけど狭いし散らかってるよ?」
「そういうのは関係ない。どこか違う場所に行きたいんだよ」
マンガのセリフみたいだなと小さく笑ってしまった。じろりと瑠の睨みが飛んでくる。
「何かおかしいか」
「いやいや、何もおかしくないよ」
えへへと苦笑すると、瑠は横を向いてしまった。
ふと瑠が爽花を女の子扱いしていないことに気づいた。若い女の子が嫌なら爽花も嫌いなはずだ。
「ねえ、あたしのこと男だって思ってるでしょ」
「はっ?」
「だって、あたしが女の子だったらアパートに行ってもいいなんて聞かないよね? 一応これでも女の子らしくしてるつもりなんだけどなあ……。まあ、しょうがないか」
ふう、と息を吐いたが瑠は即答した。
「俺は、お前を男だと思ってない」
「だけど、女の子たちから逃げてるじゃない」
「しつこくつきまとってこないだろ。お前は、あの女どもには持っていないものがあるんだよ」
むっとして、軽く瑠の胸を叩いた。
「馬鹿にして……。おしゃれじゃないし可愛くもないけど頑張って生きてるの!」
「そういう意味じゃねえよ。さっさと帰るぞ」
短く言い切って、瑠は早足で歩いて行く。慌てて爽花も走ってついて行った。
最初は動揺したが慧が何度も来ているため、男子をアパートに入れるのはあまり緊張しなかった。特に瑠は慧のように豹変したり、逆に好きだと甘い言葉も言わない。
「コーヒーがないからお茶でいい?」
「甘くないならいい」
「そっか。じゃあお茶淹れるね」
ヤカンを火にかけてお湯を沸かす。爽花も瑠も口を開かず、空気が流れるだけで気まずい状態だ。
「……黙ってないで、しゃべってよ……」
耐えきれず爽花が呟くと、俺も同じ気持ちだったという視線が飛んできた。
「お前の方が、最近のことに詳しいだろ」
「詳しくないよ。ニュースになる話題もないし。普通の毎日だよ」
いいや、という顔で瑠は指を差してきた。
「普通じゃないだろ。俺と一緒で、あの連中に酷い目に遭ってたんだろ。ブス女とか呼ばれてたし」
それだけでなく、瑠の問題も抱えていた。割と爽花には忍耐力があるみたいだ。
「悪口は言われたよ。でも学校休んだりはしてないよ。瑠よりもしつこくなかったし」
「……そうか。それならいいんだ。安心した」
まるでずっと気になっていたような口調だ。まさかお互いに悩み合っていたのか。もしかしたら慧が「爽花が元気ない」と言っているところを偶然知ったのかもしれない。
お湯が沸いたのでお茶を淹れた。テーブルに置き、向かい合わせに座った。
「どうして瑠ばっかり嫌な目に遭うんだろう……」
独り言が漏れ、瑠は驚いた声で聞き返した。
「俺が嫌な目に?」
「だって、慧はファンクラブに囲まれても不満一つもなかったじゃない。離れたいって言えば、すぐに関係も切れたでしょ。つまり慧は自由に付き合えたってことだよ。でも瑠は無理矢理つきまとわれて、アトリエにも行けずに必死に逃げるだけ。だいぶ差があるよ。しかも双子の弟なのに助けないでほったらかしに平気でする冷たさに、ショック受けちゃった。家族なのに……」
さらに爽花に面白いものと言って見せてきた。あの行動で、爽花が慧を想う愛がほんの少し欠けた。瑠は黙ったままお茶を飲み、どこか遠くを眺めていた。
壁の時計が六時を指して、そっと囁いてみた。
「……そろそろ帰ったら?」
窓の方をちらりと見て、瑠は腕を組んだ。
「そうだな。でも俺は家に帰るつもりはないから」
「家に帰らない? お母さんとか心配するでしょ。ちゃんと家に帰らなきゃだめだよ」
すると瑠は抑揚のない口調で呟いた。
「誰も俺のことなんか心配してねえよ」
意味がわからず戸惑った。なぜ家族なのに心配しないのか。けれどダンマリな性格のため、絶対に教えてくれないのはすでに知っている。余計なことをして気まずい雰囲気になるのは避けたい。
「外で寝るなんて無理だよ。ご飯だって食べられないし。暖かい場所なんてどこにも」
言いかけてどきりと心臓が跳ねた。あることが胸に浮かんだ。
「もしかして、このアパートに泊まる気なの?」
慌てて聞くと、瑠は曖昧に首を横に振った。
「別に、そこまで厚かましい男じゃないぞ。俺は」
しかし明らかに、ここに泊まれば問題はないという表情だ。
「待ってよ。ここ、あたしのアパートなんだよ? ホテルとか宿とかじゃないんだから」
「さっき、頼ったり助けてもらったり素直に甘えなきゃだめだって言ったのは嘘だったんだな。もう出て行く。女に追いかけられる外に」
拗ねた口調でコートを着て玄関へ向かう瑠の背中に、慌ててしがみついた。
「わ……わかった。泊まっていいよ。嘘じゃないよ」
「そうか。それはありがたいな」
瑠の方が上手で悔しくなった。相手を自分のペースに乗せるのは瑠も慧も得意だ。爽花がドジだからこういう結果になるのかもしれないが、それにしてもぐるぐると振り回され過ぎだ。普通の恋愛より振り回されている気がして、無意識に俯いた。




