四十二話
憂鬱なままで春休みが始まった。クラスメイトたちは喜んでいたが爽花は嬉しくも何ともなかった。全ての原因はストーカー集団だ。ハイエナのようにしつこくつきまとってくる邪魔な存在はいつ消えるのか。
「あーあ……。やんなっちゃうな……」
ふう、とゆっくりため息を吐き俯くだけだ。
休みが始まって数日が経ったある日、ぶらぶらと散歩に出かけた。気持ちのよい穏やかな緑が、暗い心の中を落ち着かせてくれる。自然ほど爽やかで素晴らしいものはない。あてもなく足の進む方に向かうと、背の高い人物が視界に入った。
「る……瑠!」
大声で駆け寄り、ぎゅっと腕に抱き付いた。慌てて瑠も爽花を見下ろした。
「うわっ、何だよ。お前かよ」
「お前かよって……酷いなあ。あたし、ずっと瑠のこと心配してたのに。毎日頭痛くして、うんうん悩んで、瑠を助けてあげようって思ってたのに」
「心配してた? どうしてお前が心配するんだよ。俺のことなんか別にどうだっていいだろ」
ぶんぶんと首を横に振って、びしっと指を差した。
「だめだよ。そうやって全部一人で解決しようっていうの。人に頼ったり素直に甘えたり助けてもらわなきゃ生きていけないよ。世の中は持ちつ持たれつっていうでしょ」
「ずいぶんと偉そうだな。だいいちお前が俺を助けるなんて無理だろ」
ふん、と横を向いてしまったが嫌がっているように感じられなかった。むしろ久しぶりの爽花に安心しているみたいだ。
「で、何しに行くの? 買い物?」
「違う。イチジクさんに会いに行くんだ」
「イチジクさん?」
予想外の答えに目を丸くした。一体誰なのか。無花果を栽培している人なのか。
「ねえ、あたしもついて行っていい? イチジクさんに会ってみたい」
ダンマリで反応なしだったが、だめという表情ではなかったためついて行くことに決めた。すたすたと早足の瑠に遅れないように一生懸命走った。
今まで歩いたことのない細い道を抜けて、大きな日本家屋に辿り着いた。屋敷よりも庭の方が広く、隅で小さな女性が草をむしっていた。
「イチジクさん」
瑠が呼ぶと女性は振り返った。七十代後半くらいのおばあさんで、恵比寿のような笑顔で近づいてきた。
「瑠くん。いらっしゃい。今日もスケッチ?」
「はい、いいですか」
「もちろん。会いに来てくれて嬉しいよ」
ふと瑠の後ろに隠れていた爽花に気づいて、イチジクという女性は目を丸くした。
「あれ? あなたは」
「初めまして。新井爽花っていいます」
「爽花ちゃん? 瑠くんのお友だち?」
「いいえ、学校が一緒ってだけです。クラスメイトでもないし」
「そうかい。まあ、二人ともあがりなさい」
話してからイチジクは屋敷に戻った。瑠も玄関へ移動し戸惑ったが爽花もお邪魔させてもらうことにした。一番手前の襖を開けると、イチジクが急須でお茶を淹れていた。瑠のためなのか、和室とは似つかわしくないコーヒーまで用意してある。お菓子やおつまみなどが乗ったお盆も卓袱台の上に置いてあった。イチジクと呼ばれているのに、どこにも無花果は存在していない。瑠に質問しようと思ったが庭へ行ってしまった。
「えっ……? 行っちゃいましたけど……」
「いつもそうなんだ。瑠くんはあんまりお世話をかけたくないみたい。ただ花が描きたいってだけで」
先ほど「いいですか」と瑠が確認していたことが何となく理解できた。イチジクはさらに話を続けた。
「二年くらい前かな? 瑠くんがうちの庭をじっと眺めててね。迷子かなって心配して声かけたら、椿が綺麗で見惚れてた、スケッチしてもいいですかって聞いてきてびっくりしたよ。男の子で花に興味あるって珍しいし、絵も上手くてまたびっくり。その日から花のスケッチをしに遊びに来てね。独りぼっちだったから、本当に嬉しかったよ。お花を育てるのも楽しくてしょうがないんだ」
まさか瑠からお願いをするとは驚きだ。しかもこんなに閑散としている場所をどうやって見つけたのか。
「知りませんでした……。……あの、どうしてイチジクっていうお名前なんですか?」
失礼かもしれないが、謎をそのままにしたくはなかった。イチジクは、また恵比寿の顔で答えてくれた。
「やっぱり不思議だよねえ。みんな必ず聞いてくるよ。姓が漢数字の九だけなんだ。一文字で九。一字で九。一字九。これでイチジク」
そういうことか、と理解できた。変わった名字もあるのだと意外だった。イチジクは爽花の前にお茶とお菓子を置いて、どうぞと視線で伝えてきた。いただきます、と一口お茶を飲んだ。高級な緑茶の味で、イチジクは昔はお金持ちだったのではないかと想像した。この大きな屋敷も広い庭も、お金があったから手に入ったのだろう。さらにお菓子もおいしくて、自然に心が洗われているみたいだ。
「ちょっと不思議な性格だけど、瑠くんはいい子だね。お花が好きな人に悪い人はいないもんね。爽花ちゃんは瑠くんの描いた絵を見たことがあるかい? すごく綺麗な色で繊細な絵なんだよ。あんなに綺麗な色を生み出せるなんて普通の子は無理だよ。物のとらえ方が違うんだろうね。瑠くんはすごいよ。特別な力を持ってるんだね」
全く持ってその通りなので大きく頷いた。油彩を知らなかった爽花が、なぜあれほど白薔薇に惹かれたのかは瑠の持つ技が素晴らしかったからだ。画家になりたがらないのは有名人と注目されるのが苦手だからだ。特別扱いされたくないのだろう。慧は勘違いをしているという想いが生まれた。他人が嫌いなのではなくどういう会話をすればいいのか、どんな顔をすればいいのかを知らないだけだ。誰とでも付き合えるのに瑠本人が無意識に遠ざけようとしているため悪者に感じるのだ。そうでなければ、こうしてイチジクにスケッチをさせてほしいと願ったり、爽花を大事なアトリエに自由に出入りさせたりしない。特別になりたいと泣く慧の姿が蘇った。努力しても褒められるのはあっちで、勝てないと嘆いていた。非の打ちどころがない慧が悔やむなど信じられなかったし、瑠はそんなに強いのかと衝撃を受けた。けれど瑠は特別扱いされたくない。いつも二人は正反対だ。
「……寂しくて堪らなかったけど、瑠くんが来てくれて幸せな老後だよ。ものすごく感謝してるんだ。ずいぶんと歳とっちゃったから大したことはできないけど、瑠くんのためなら何だってするよ」
相当可愛がられているようだ。可愛がってもらえるから瑠も会いに行くのだ。ストーカーに追いかけられるとわかっていても、イチジクを独りぼっちにさせて悲しませたくないから会いに行っていたのだ。
「……そうですね。私も」
爽花の言葉を遮るように襖が開いて瑠が戻ってきた。スケッチが終わったらしく、爽花のとなりにあぐらをかいた。普段は椅子なので、お金持ちの息子もあぐらをかけるのかと少し驚いた。イチジクはコーヒーやお菓子を差し出して、恵比寿の笑顔をした。
「たくさん食べなさい。高校生なのに遠慮なんかしちゃだめだよ。まだまだ奥にあるからさ。瑠くんたちに食べてもらうとお菓子も喜ぶよ」
そっと瑠は羊羹を手にして口に入れた。甘いものは嫌いと言っていたが和菓子は平気なのか。それともイチジクの厚意を無駄にしないため我慢しているのか。コーヒーも飲み干して、スケッチブックをバッグにしまった。その瑠をじっと覗き込んでイチジクは囁いた。
「もういいのかい?」
「はい。これだけスケッチできたら充分。……じゃあ俺は帰るけど、お前はどうする?」
「あっ、あたしも帰るよ」
慌ててバッグを掴んで爽花も立った。どこをどう歩いて屋敷に辿り着いたか覚えていない。知っていても迷子になるのは確実だ。ふとイチジクの表情が寂しげな笑顔に変わっているのに気が付いた。孤独な時間がまた始まるのかと残念で、なぜか罪悪感に似た感情が胸に溢れた。
「いつでもおいで。お菓子用意して待ってるよ。瑠くんも爽花ちゃんも、どうもありがとうね」
しかし瑠は黙ったまま玄関へ進み外へ出てしまった。あまりにも素っ気なさ過ぎて、代わりに爽花が頭を下げて遅れないように追いかけた。しばらくして瑠は足を止めて振り返った。
「さっきの失礼だよ。ありがとうって言われたら、ちゃんとお返事しなきゃだめでしょ」
「うるせえな。偉そうなこと言うな」
拗ねたような口調だったが、嫌味な感じはなかった。そのため爽花もすぐに笑顔になった。
「イチジクさん、優しくていい人だね」
「いい人は花を育てるのが上手いんだよ。昔は花屋で働いてたから花束も作れるらしいぞ」
花が好きな人に悪い人はいないというイチジクの言葉が蘇った。花を愛する人は、みんな素敵でロマンチストなのだと改めて感じた。
「へえ……。花束かあ……。作ってもらいたいなあ」
そういえば自分の名前にも花が入っているのに気が付いた。爽やかな花と書いて『さやか』。名付け親の京花に感謝でいっぱいになった。
「それにしても、あの女たちから解放されるにはどうすればいいんだ……」
独り言かもしれないが瑠が気持ちを言葉にするのは珍しいため、すかさず答えた。
「背が高いから目立つんだよ」
「目立つ?」
うん、と頷き、腕を伸ばしながらもう一度言った。
「だって、あたしより三十センチくらい高いよ。遠くにいてもすぐ見つかるもん」
慧も同じく長身だ。抱きしめられると違いがよくわかる。爽花の頭のてっぺんに慧の首の付け根が当たる。そのため腕を回されると完全に胸にすっぽりと収まって、逃げられなくなってしまう。爽花の身長が低いせいもあるかもしれないが、二人とも高校生にしてはかなり高いのだ。
「かと言って、身長を自由に変えられないもんね。あの子たちのターゲットが他の男の子にならない限り続くんだろうね」
かっこよすぎも楽ではない。瑠や慧に出会って初めて事実を知った。平凡が一番幸せなのだ。ふと空を眺めると、セルリアンブルーが広がっていた。爽花と瑠が好きな美しい青。爽やかで癒してくれる大切な色だ。
「……アトリエで油絵描きたいでしょ」
そっと聞くと、意外にもあっさりとした返事が来た。
「イチジクさんの庭でスケッチできるし、春休みだから中に入れないだろ。とりあえず今はアトリエに行かなくても平気だ」
「えー? 何それ。落ち込んでたあたしが馬鹿みたいじゃない」
その時、地面の石につまずいて倒れそうになった。しかし瑠が素早く手を伸ばして支えてくれた。
「危ねえな。コンクリートに頭ぶつけたら死ぬぞ」
「わ……わかってるよ。いちいち言わなくたって」
よろよろと立ち上がり、ふとその手が左手だったのに気が付いた。ずっととなりにいたのに、そういえば瑠は左利きだった。周りに左利きの人がいないため、何だか嬉しくなってくる。ふふっと爽花が笑うと、瑠は呆れた顔になった。
「転んだのが楽しいのかよ」
「違うよ。この手で絵を描いてるんだよね。左手でも絵って描けるんだ」
「当たり前だろ。左利きの画家だって大勢いるんだぞ」
「だよね。いやあ……すごい手だなあ……」
ははは、と声を出して、こうして明るい想いになれたのは久しぶりだと感じた。慧の前では作った笑顔しか見せられないが、瑠の前では自然な笑顔が見せられる。素の爽花でいられる。
「ねえねえ、ちょっと寄り道していこうよ。誰にも邪魔されないところに行って、一気にストレス発散しようよ」
断られるかもしれないと予想したが、瑠は小さく頷いた。
「緑は目にいいしな。ただし長くはいないぞ」
「だから、わかってるってば」
むっとすると、聞こえなかったフリをして瑠は歩き始めた。先ほどは早足だったのに、爽花に合わせているのかゆっくりと歩いてくれる。やはり瑠には癒される。慧にはない特別なオーラみたいなものが存在する。そばにいるだけで安心する。
一時間ほど経って、瑠は立ち止まった。もう別れなくてはいけないのかと寂しくなったが、なぜか黙って考えている。
「……どうしたの?」
覗き込むように見つめると、瑠は少し焦った顔で口を開いた。




