三十七話
「爽花に見せたいものがあるんだ」
ある夜、慧が突然電話をかけてきた。やけに明るい口調だ。
「見せたいもの?」
「そう。めちゃくちゃ面白いものだよ。悲しい時に笑える、かなりウケるもの。最近勉強ばっかりだったから、一緒に遊びに行こうよ」
確かに瑠のこともあって、心身ともに疲れ切っている。ほんの少しでもこの緊張をほぐしたい。
「わかった。いつでもいいよ。慧の都合で決めて」
「なら、明日さっそく行こうか」
それほど手軽に見れるのか、と驚いて目を丸くした。
「でも学校があるから遊びに行けないよ」
「大丈夫。放課後でも問題ないからさ。あっ、でも、無理かもしれないから、その場合は諦めて違う日にしよう」
無理とはどういう意味か気になった。手軽だけど、たまに見れなくなる面白いものとは。
「早く明日になってほしいなあ」
独り言を言い、慧は一方的に電話を切った。
いろいろと想像してみたが、全く慧のいう面白いものが何か浮かばない。それよりも嫌な予感が胸に溢れて、とりあえず考えるのを止めて眠った。
夢の中で、アトリエで絵を描いている瑠の姿が現れた。爽花はドアの近くにいて、一歩一歩進む。瑠、と呼んで肩に手をかけようとした瞬間、瑠が真っ白な人形と化してぼろぼろと崩れる。同時にイーゼルやキャンバスなどもただの土くれとなる。
「瑠、どこに行っちゃったの……?」
呟いて、はっと目が覚めた。ゆっくりと目だけ動かし、壁にかかっている時計が五時を指しているのを確認した。窓の外は淡い水色が広がり、薄っすらと朝日が差し込んでいる。
「……夢か……」
嫌な気分で体を起き上がらせた。なぜこんなおかしな夢を見るのか不思議だった。二度寝をするという想いもなく、部屋から出て台所で水を飲んだ。ふう、とため息を吐いて椅子に座る。
「慧にストレス解消してもらえば平気だ。面白いものを見れば、きっと全部消えちゃうんだ……」
情けなく小さい声で自分を励まし、もう一度飲んでから洗面所で顔を洗った。
学校で授業を受けながら、早く終わってほしいと願った。そのため教師の話など一つも頭に入らなかった。あまりにもぼけっとしているせいで、名前も知らないクラスメイトから「具合が悪いのか」と心配されたくらいだ。待ちに待った放課後がやって来ると、爽花の方から慧に会いに行った。これは初めてのことだ。
「嬉しいな。まさか爽花が迎えに来てくれるなんて」
「早く連れて行って。楽しみにしてるんだから」
「まあ、そんなに焦らなくても。のんびりと行こう」
のろのろと帰り支度をする慧にいらいらした。もっと爽花の気持ちに気づいてほしいものだ。
昇降口を出て慧が向かったのは、爽花が散歩でよく通る道だった。特に何の変哲もない、ただの道だ。
「どこが面白いの?」
「これから始まるよ。待ってて」
言われた通り待っていると、突然恐ろしいものが視界に入った。若い女の子たちと、囲まれて焦っている瑠の姿が現れた。逃げようと必死な瑠に、たくさんの女の子たちがつきまとっている。
「瑠!」
「あんなに慌てちゃって。ウケるだろ」
駆け寄ろうとしたが慧に腕を掴まれてしまった。
「放してよ。瑠を助けなきゃ」
大きく振り払おうとしても慧の方が力は強い。
「どうして爽花があいつを助けるんだ? 爽花とあいつは無関係なんだ。他人なんだ。爽花は俺のそばにいればいいんだよ」
じろりと爽花を見つめながら、慧は低く呟いた。
「偉そうな態度とる罰だ。バチが当たったんだよ。ただそれだけだ」
「酷いよ。ほったらかしにするどころか、罰なんて……。瑠が可哀想じゃない」
「可哀想? 可哀想なのは俺の方だよ。俺はあれよりずっと酷い目に遭ってるんだよ。あいつばっかり認められて、どんなに泣いたか数え切れない」
抑揚のない固い慧の言葉にショックを受けた。面白いものとは、瑠が女の子たちに囲まれ焦っている姿だったのだ。
「でも」
「もう戻るぞ」
短く言い切って慧はその場から離れた。腕を掴まれているので、爽花も連れて行かれた。歩きながら、そっと小さく聞いた。騒ぐと絶対に睨まれるので、あえて落ち着いた態度をとった。
「慧は、瑠にどんなことされたの? 詳しく教えてよ」
赤の他人である爽花が知る権利はないが、あまりにも冷たい行動に耐えられなかった。振り向かずに慧は凍った口調で答えた。
「ありとあらゆることだよ。あいつに負けて、自分がどれほどだめな人間か思い知らされた。どうしてもあいつには勝てないんだ」
「勘違いじゃないの?」
無意識に言葉が漏れた。過去にどのような生活を送ってきたかはわからないが、瑠が慧を痛めつけているイメージが沸かない。
「勘違い?」
「うん。疑心暗鬼っていうか……。瑠は何とも思ってないのに、慧が悪く感じてるだけじゃないの?」
ぴたりと足を止めて、慧は軽く睨む表情で爽花を見下ろした。
「爽花は、俺じゃなくてあいつの味方をするんだね。あいつの方が大事ってことか」
ぶんぶんと首を横に振って、緊張しながら言葉を選んだ。
「違うよ。そういう意味じゃなくて」
「違うなら、いちいちくだらない質問しないでもらいたい」
がしっと両手で肩を掴み、慧は爽花に顔を寄せてきた。恐怖が溢れ、体が固まってしまう。
「頼むから、あんな奴のために悩んだり何かしてあげようとか考えないでくれ。全部無駄な努力だから。約束だよ」
逆らうことはできず、頷くしかなかった。とにかく慧を敵に回したらとんでもなく大変な事態が起きるはずだ。
「……わかった。もう勘違いなんて聞くの、やめるよ。ごめん……」
俯いて呟くと、慧は肩から両手を外し強く抱き締めた。まだ愛されている状態だとこっそり確信した。
アパートに帰ってからも、瑠は追いかけられているのかと不安で探しに行こうかと迷った。けれど外は真っ暗で女の子が一人で歩くのは危険なので、仕方なく断念した。もし可能なら爽花が彼女たちを止めたいが、もちろん成功はしないだろう。このまま慧に従って放っておいて大丈夫なのか。瑠のためにできることは一つもないのだろうか。ぐるぐると頭の中で疑問が飛び交う。爽花は昔から無駄を最も嫌っているが、瑠を助けるのは無駄な努力だとは感じなかった。半人前でドジばかりの自分が情けなくて悔しかった。こんなにもやもやするのは初めてかもしれない。だが瑠にしてみると、この想いは余計なお節介であり、きっと関係がないんだから首を突っ込むなと突き放すはずだ。慧の言う通り、無駄な努力なのだ。




