三十六話
喫茶店から出ると、もう外は暗くなっていた。風も冷たい。
「けっこう長居しちゃったね」
爽花が言うと、突然慧がしなやかな指で唇を押してきて、何も話せなくなった。
「さっき、あの男のことをすごいとか褒めてたけど、やめてくれる? それから俺とあいつを比べないでくれるかな。すごく気分悪くなるから。昔からあいつと比較されるのが死ぬほど嫌なんだ。瑠はできるのに慧にはできないってね。よく知りもしないくせに勝手なこと言いやがって。周りがそう言うから、あいつどんどん偉そうな態度とってくる。爽花にまで同じことされたら、頭おかしくなっちゃうよ」
怖くなって慌てて頷いた。口を押されているため、わかったと答えるのは無理だ。
「ありがとう。爽花は優しいね」
指を離し、慧はにっこりと微笑んだ。
この男を敵に回してはいけないと確信した。本気で怒らせたら最悪の事態が起きる。特に水無瀬家はお金持ちなのだから、爽花を陥れる武器は簡単に用意できるはずだ。恐怖のあまり全身が震えてしまう。それを寒いと捉えたのか、慧は抱き締めてくれた。以前よりもがっしりと男らしくなっていて、瑠に抱き締められたらこんな感じかなあとこっそり想像した。いつまでもこの状態ではいられないので、しばらくして慧は離れた。緊張の糸がほぐれているのが不思議だった。
「……今日は、誘ってくれてありがとう……」
もう一度感謝を告げて、深々とお辞儀をした。
アパートに戻りバッグを床に放り投げてベッドに倒れた。もう慧から瑠を助けてあげられる方法を聞けなくなってしまった。
「どうして瑠ばっかり酷い目に遭うんだろう……」
慧はみんなから尊敬されてきらきらと輝いているのに、瑠は孤立して誰にも話しかけられもしない。特に残念なのは、あんなに綺麗な絵を褒めてもらえないことだ。プロと呼んでもいいくらいの画力や繊細で美しい作品が評価されないのはおかしい。しかし瑠にしてみると余計なお世話で放っておいてくれという想いなのだろう。そういう過ごし方をしてきたのだから、もう今さら変えることはできない。
「瑠って、もったいないことしてるなあ……」
独り言を漏らして、はっと起き上がった。そういえばカンナから、爽花はいつもいつももったいないことばっかりしてるよと言われたのを思い出した。爽花も瑠もかけがえのない宝物を拒否しているのだ。けれど宝物を与えてもらう前にすることが怖くて、手を伸ばせない。はあ、とため息を吐いて、また横たわった。
次の日曜日も慧に勉強の手伝いをしてもらった。怖い思いをしたので、完全に瑠の存在は頭から消した。帰りは六時半を過ぎて申し訳なくなった。
「迷惑かけてごめんね。慧も宿題とかあるのに」
「謝らないで。俺のこと、どんどん使っていいから」
にっこりと笑われると、自然に爽花も笑顔になった。
「質問の答え教えてあげようか?」
声のトーンを低くして、慧は覗き込んできた。
「質問の答え?」
「そう。ファンクラブにプレゼントをもらってた時、どんな気持ちだったって聞いてきただろ」
驚いて目を丸くした。まさか慧の方から言ってくると思っていなかった。
「でもあたしが話してからじゃないといけないんでしょ?」
「まあね。だけど、やけに胸に残ってて……。どうしてそんなことが知りたいのかって考えてみたんだ」
どきりとして無意識に拳を作っていた。いい返事がやって来ると期待した。もしかしたら瑠を助けるきっかけが得られるかもしれない。
「始めは嬉しかったよ。お菓子とかたくさんくれるし、みんな可愛かったからね。でもだんだんつまらなくなってきた。水無瀬くんがいないと生きていけませんとか、そんなわけないだろって言いたくなるだろ。ものすごく煩わしくて仕方なかったよ。そんな時に恋人なんかいらないって決めてる爽花と出会ったんだから、惚れるのは当然だ。追いかけられるより追いかける方が、よほど気楽だしね」
そこまで言って、ずずいっと顔を寄せてきた。
「……あいつの心配してるんだろ。女の子につけられてるって。全く気にしなくて大丈夫だよ」
「大丈夫って……。すごく辛そうだったよ。慧は双子の弟なんだから助けてあげるとかできないの?」
「別に必要ないよ。むしろあいつが学校に来ないから、俺は爽花と一緒にいられるんだから」
口調は冷たかったが、表情は微笑んだままだった。首を横に振って爽花は声を固くした。
「慧は瑠と仲がよくないからそう思わないかもしれないけど、あたしは瑠が疲れてるところなんて見たくないよ」
慧の目つきが鋭くなっていた。凍り付く視線だった。
「じゃあ見なきゃいいじゃないか。あいつと関わるとろくなことないぞ」
返す言葉がなく、黙って俯いた。震えている爽花を慧は抱き締めた。
「俺と話す時は、あいつの名前は出さないで。爽花があいつのことを考えてるって思うと悔しさでいっぱいになる。俺だけ見てほしいよ。約束してくれる?」
うん、と頷くしかなかった。暴れたら止められないのはすでにわかっている。
「わかった。ごめんね。もう言わない」
小さく呟くと、慧の握る腕の力が強くなった。
期待していたのに役に立たなかった慧の答えにがっくりと項垂れた。アパートに帰って、いくら何でも酷いじゃないかと空しくなった。困っているのに放っておくなど、相当二人の仲は最低なのだろう。なぜこんなに犬猿の仲なのかは他人の爽花は知らない。双子だから、普通の兄弟よりも血の繋がりは濃いはずだ。「俺と話すときは、あいつの名前は出さないで」と言われて素直に従ってしまったのも後悔だ。瑠に最も近いのは慧だけなのに、なぜ首を横に振らなかったのか。それは慧が恐ろしく、自分の思い通りにならないと愛する爽花でさえ疑い傷つける男だからだ。
「……しょうがない……」
独り言を呟いたが、諦めるつもりは全くなかった。爽花が問題を解決できる可能性はほとんどないが、ほったらかしにはできないと決意した。




