三十三話
「昨日は、やけに偉そうな態度とってごめんね」
翌日の昼休みに、慧が手を合わせて謝罪に来た。
「偉そうって?」
「だって、俺だってまだ学生なのに、まるで先生みたいだったじゃないか」
宿題をやったのかと叱ったことだと気が付いた。ふるふると首を横に振って、にっこりと笑った。
「いいの。怒られるのは当たり前だもん。あたしは馬鹿だから普通の子よりもたくさん勉強しなくちゃいけないし、はっきりと言ってもらえて感謝してるよ」
あの後、一人で宿題を終わらせるのに五時間半ほど費やしたのは隠しておいた。そのせいで、朝から眠くてしょうがない。
「でもさ、すっごく自分勝手だったから、お詫びに家庭教師するよ。いつでも構わないよ」
喫茶店でお茶を奢るよではなく、少し残念だった。けれど助けてもらえるのはありがたい。
「じゃあ、土曜日に。図書館で待ち合わせでいい?」
「もちろん。絶対に行くよ」
爽花も慧も、ほっと安心のため息を吐いた。「ありがとう」と微笑み、慧は離れていった。
今日が水曜日なので木曜日金曜日を通り越せば、すぐに土曜日が来る。あっという間に約束の日になり鞄に教材を入れて外に出た。図書館のドアの前に慧は立っていた。相変わらず、私服はおしゃれだし姿形は綺麗で羨ましくなる。そして、なぜドジで取り柄もない爽花に惹かれているのかが不思議だ。
「慧は宿題しなくて平気なの?」
鞄を持っていない慧に、ふと疑問が沸いた。
「俺は、かっこよくないところを爽花にバラしたくないから勉強は家でやるって決めてるんだ。うんうん悩んでる俺を見られたくない」
慧にもかっこよくない状態があるのか。驚いて目を丸くすると、もう一度話した。
「誰だって、恥ずかしい自分は他人には秘密にしておきたいだろう。あ、でも爽花は隠さなくていいよ。爽花の一番の魅力は、そのおっちょこちょいな性格だから」
褒められているのか不明だったが、愛されているのだと嬉しくなった。
椅子に並んで座ると、鞄から教科書を取り出す前に慧は呟いた。
「まずは数学から始めよう。楽なものが残ってる方がいいよね」
すでに苦手な教科はどれか知っていると意外だった。常に爽花を想っている証拠かもしれない。頭の中から瑠の姿を消し、二人で難問と戦った。ふう、と息を吐いたのは、だいぶ時間が経ってからだった。まだ空は暗くなっていないので、休憩するためにと喫茶店に移動した。しかし、着いてから慧が鞄を持っていないので中に入れない事実に気づいた。
「あたしもお財布持ってきてないよ……」
「仕方ない。俺、バック取りに帰るよ」
くるりと後ろを振り返った慧の腕を慌てて掴んだ。
「喉乾いてないし、わざわざ帰らなくてもいいよ。いつでも行けるんだし」
「せっかく来たのに、ゆっくりしていこうよ」
掴んだ手を柔らかく外し、慧は走り始めた。取り残された爽花はどうすることもできず立ち尽くし、ぼんやりと空を眺めた。雲一つない青空が、遠くまで広がっている。
「……セルリアンブルーだ……」
はっとある想いが生まれた。慧がしばらく戻ってきそうにないので、瑠を探そうと考えた。瑠ではなく女の子集団でもいい。立ち止まってはいられなかった。街中を走りながら、きょろきょろと周りを見回すが、どこにもいない。普段なら嫌でも会う場所に行っても、騒ぐ声すら聞こえなかった。はあはあと息を荒くして全力疾走した。
三十分ほど経った頃、女の子たちの気配を感じた。きゃあきゃあと明るい笑い声が、薄っすらと耳に飛び込んだ。息を整え、拳を強く作った。
「瑠……。今助けに」
独り言を漏らすのと同時に、携帯が鳴り響いた。驚いて鞄から取り出し「はい」と答えた。
「爽花? どこにいるんだ?」
慧が喫茶店へ戻ってきてしまった。不満そうな口調に、苦笑いしながら答えた。
「あたしもお財布取ってこようと思って、アパートにいるの」
適当に嘘をつくと、慧は恐るべき言葉を話した。
「それなら、迎えに行くから待っててよ」
「えっ? 迎え?」
ぎくりとして冷や汗が流れた。体中から血の気が引いた。
「い……いいよ。一人で行けるもん」
「だけど、爽花に早く会いたいんだ」
焦って携帯を落としそうになった。がくがくと全身が震えてしまう。
「先に喫茶店に入ってて。すぐに戻るから」
もし慧がアパートに行って、嘘だとバレたらまずい。かといって瑠を探そうとしたと素直には言えない。とにかく冷や汗で服がぐっしょりと濡れて止まらなかった。どうか慧が「わかった」と答えてくれるのを願い、抜けそうになる力を抑えた。
「ね、そうしてよ」
もう一度伝えると、とてつもなく低いトーンで慧が聞いてきた。
「……もしかして、嘘ついてるんじゃないか?」
「えっ? 嘘なんかつくわけないじゃない」
「じゃあどうして断るんだ? 迎えに行っちゃいけない理由なんてないだろ? ってことは、アパートじゃなくて別の場所にいるんだろ。どこにいるのか、はっきり教えてくれ」
やばいと胸の中で嫌な予感が溢れた。また疑っている。詮索魔になっている。
「ご、ごめん。慧の言う通り、アパートにいるのは嘘。でもここは慧は来れない場所だから、教えても無理なの」
「無理? どうして俺は来れないんだよ?」
もう思いつく言い訳はなくなってしまった。緊張のあまり黙ると、少し穏やかな声が耳に入った。
「……まあ、いちいち質問しても意味ないな。わかった、喫茶店で待ってるよ。遅れても構わないから、必ず戻ってきてくれ」
ほっと安心のため息を吐いた。「じゃあね」と言いたかったが口が開かなかった。そのまま電話を切られ、深呼吸を繰り返した。顔を上げると、先ほどの女の子たちの気配は消えていた。
「……また……」
また邪魔をされたと悔しくなった。瑠に近付こうとするたび、関係のない他人が割り込んで失敗してしまう。なぜ邪魔されるのかが謎で空しくて、唇を噛み締めた。
「もう……いい加減にしてよ……」
愚痴を吐き捨てて、時計を確認した。三時半で、ちょうど甘いものが食べたくなる頃だ。ぐったりと項垂れて、喫茶店への道を歩いた。




