三十二話
瑠の姿を見てから、著しく成績は酷くなった。教師に当てられて簡単すぎる問題なのに答えられない。慧に携帯をかけた。
「悪いけど、今度の土曜日に図書館で家庭教師してくれないかな。ほんと……やばい……」
「もちろん。何時間でも付き合うよ」
快く慧は承知してくれて、少し安心した。
去年、夏休みの宿題をした席に並んで座り、勉強に集中した。慧はわかりやすく丁寧で、一日でかなり賢くなった感じだ。外が暗くなるまでみっちり勉強に励み、一通り終わらせた。
「自分が馬鹿で嫌になるよ……。慧がいなかったら留年だよ」
「もし留年になったら俺が学校に文句言うから。大丈夫だよ」
「いやいや、それはだめだよ。さすがに」
ははは、と声を出して笑った。ふと最近こういう笑い方をしていないのに気が付いた。悩んだり不安だったり、泣いて落ち込んでばかりいた。そんなにネガティブな爽花を愛してくれる慧の優しさにも気付いた。
「そういえば、この間どうしたんだよ? 最近女の子たちが家に来るとか、しつこくメールが送られてきてないかとか聞いてきただろ」
はっと緊張が走った。不自然に視線を逸らしてしまう。
「別に。ちょっと気になっただけ」
「そうか? かなり深刻そうな声だったぞ? 俺が嘘も誤魔化しもないって言っても、やけに暗かったし」
ぶんぶんと首を横に振って、目をぎゅっとつぶった。
「本当に意味ないの。さっさと忘れちゃっていいから」
爽花の想いが届いたのか、慧はしっかりと頷いてくれた。
アパートへの帰り道を歩きながら、慧は現在の瑠の状況を知っているのか考えた。一緒に暮らしているのだから、絶対に気づいているはずだ。爽花が必死になって質問したのも、歯切れの悪い例えの理由も全部わかっている。わかっているのにあえて言わないのは、爽花と瑠の距離を縮めたくないからだ。俺のそばにいてほしい、もうどこにも誰にも奪われたくない、自分だけのものにしたい。だからわざと隠しているのだ。
こんな日がやって来るなら、瑠と電話番号の交換をしておくべきだった。というか、瑠は携帯を持っているのだろうか。今まで一緒にいたが、あまり使用している姿は見ていない。もしかしたら瑠は、そういった新しいものが嫌いなのかもしれない。最近は絵などもパソコンで描いたりする世の中なのに、瑠はアナログで油絵を描いている。どちらかというとデジタルの方が便利そうな感じがするが、それでは油彩の良さが欠けてしまうのだろう。昔から画家たちは手を動かして絵を描いてきたのだ。アナログにはアナログならではの味がある。簡単に完成できないからこそ、素晴らしい作品と大きな達成感を得られる。爽花は素人でよく知らないが、きっとそうに違いない。
部屋に入って、時計とカレンダーしか掛かっていない壁を見上げて、ここにあの白薔薇の絵が飾ってあったらと願った。初めてアトリエに行った時、イーゼルの上で美しい薔薇が咲き誇っていた。以前ほしいと頼んだら金をとると断られ、結局我慢するしかできなくなったが、実は心の底では諦めていない。
「大丈夫かなあ……。瑠……」
はあ……と長いため息を吐いて、洗面所で顔を洗った。
慧のおかげで、次のテストは割と解けた。けれど本当に解けてほしいのは瑠についての問題だった。ぐるぐると頭の中でさまざまな言葉が飛び交って、ぼんやりする自分が情けない。
放課後にアトリエに向かいドアを開けた。やはり瑠はいない。油彩道具が、ぽつんと置かれているだけだ。無駄な時間を過ごしたくないので仕方なくドアを閉じさっさと帰った。
夜に、慧に電話をかけた。今度はうまく行きそうなセリフをメモに書き、はっきりと話すように注意した。慧の声が聞こえると、携帯を持っている手の力が増した。
「なに?」
「ごめん。あの、最近家の中で大きなニュースとかあったら教えてもらいたいの」
「……何で?」
低いトーンで慧が答え、どきりと鼓動が速くなった。
「いいじゃない。どんな内容でも構わないよ。ちょっとしたことでも」
「悪いけど、そんなものはないよ。だいいち爽花には得にならないだろう」
「あたし、もっと慧と仲良くなりたいの。だからお家の出来事とかも知りたいの。だめかな?」
「だめっていうか、本当にないんだよ」
用意したセリフはこれで全部だ。ぐっと悔しくて、瑠の名前を出そうかどうしようか迷った。
「おしゃべりもいいけど、ちゃんと宿題やったのか? 言っておくけど、俺も自分の勉強があるから、いつもいつも暇ってわけじゃないんだ。基本的に勉強は一人で頑張ることだろう? みんなも一人きりでやってるんだから、爽花も努力しなきゃだめだよ」
厳しい言葉に、しょんぼりと俯いた。確かに爽花は慧に頼り過ぎている。次のテストは苦手な数学なため、きちんと復習しておくべきだ。
「……そうだね。慧の言う通りだ。サボっちゃだめだよね」
「うん。お互いに勉強しよう。遊んでばっかりはいけないよ」
短く言い切って、慧は電話を切った。仕方なく鞄に手を伸ばし、中から教科書やノートを取り出して椅子に座った。まだ自分は学生なのだと改めて気が付いた。




