三十一話
数日間は何事もなく、普通に過ごせた。カンナに写真を見せられると動揺するくらいで、慧とも会話できるようになった。
「また爽花とおしゃべりできて嬉しいよ」
「うん、ごめんね。避けてたわけじゃないから、勘違いしないでね」
一瞬、慧の目が鋭くなった。まさか瑠の元へ行っていたのではと疑惑が生まれたのかもしれない。
「もちろん瑠とも一度も話してないよ。それより勉強が大変で。赤ちゃんで頭がいっぱいで、成績がた落ちなの。もしまずくなったら、また家庭教師してもらってもいいかな?」
ほっと安心した表情で慧は頷いた。
「大事な爽花のためなら、どんなこともするよ。俺も爽花のそばにいたいし」
常に自分のものであってほしいという意味だ。すぐそばにいれば他の男に奪われない。慧の場合は、瑠に奪われなくて済む。
「ありがとう。慧は本当に優しくて助けてもらえるから、あたしも慧のこと大事だって思ってるよ」
ここまで伝えておけば詮索魔に豹変はしないだろう。案の定、満面の笑みで慧は離れていった。
そして次の問題は瑠だ。バレンタインでおかしな行動をしてしまった恥ずかしさと、食べてもらえなかった空しい想いを跳ね除けて、アトリエへ向かった。久しぶりのアトリエへの道はやけに長く感じた。ゆっくりとドアを開き覗いてみると、油彩道具は置いてあったが瑠本人はいなかった。特に不思議には思わず、そのままドアを閉じてアパートに帰った。次の日も行ったが、瑠はいなかった。昨日と全く同じで帰るしかなかった。翌日も、さらに翌日もアトリエへ行ったけれど、なぜか瑠はいない。ついに二週間が経って、さすがに変だと思い慧に聞こうとした。だがもしそれをしたら疑われてしまう。どうして瑠の心配なんかするんだ、やはり裏で何かしているなとバレてはいけない。アトリエでのひとときを失うかもしれないのだから、慎重に行動するべきだ。答えを知りたくて一人で悶々としながら過ごし、もう二度と会えないのかと悩み続けた。
ようやく休日になり、天気がいいので散歩に出かけた。あの若い女の子たちが集まり騒いでいる。そこまでは普通だったが、囲まれている人物にどきりと心臓が跳ねあがった。休んでばっかりの瑠だった。焦りと迷いで歪んだ顔をし、離れようと頑張っている。女の子たちは腕や背中に貼りついたり、服を引っ張ったりしている。どちらも必死で、戦っているように感じた。かっこいいけれど、性格が悪そうで全然笑わなくてデートにも誘ってくれなくておしゃれにも気を遣っていない男は瑠だったのだ。衝撃が強すぎて、爽花はその場に立ち尽くした。瑠が学校に来ないのは、この女の子たちに追いかけられるから外に出られないのだ。アトリエにも行けないのだから油絵も描けない。そして爽花も瑠の絵を見られない。
三十分ほど経って、やっと瑠は集団から逃げられた。急いで走り、爽花が近づく前に姿がなくなってしまった。寂しい想いに駆られたが、これは我慢するしかない。きっと一人で深呼吸したいはずだ。
なぜ瑠と距離が縮まりそうになると邪魔が入ってくるのか。ほんの少しでも瑠のとなりにいたいのに。瑠の心の中を知りたいのに……。
「……もういいや……。帰ろう……」
自分に言い聞かせて、くるりと後ろを振り返った。
夕食は何も食べられず、風呂に入って水を飲んでベッドに横たわった。瑠が学校を休み始めたのは一カ月くらい前からだ。その間、狭い家で大好きな油絵も描けずに引きこもっていた瑠が哀れで涙が瞼に溢れた。その上、家には顔を合わせるだけで喧嘩になるほど仲の悪い慧がいる。無駄な時間が流れたのが非常にもったいない。爽花が泣いても、あの女の子たちは瑠を追いかけ続けるだろう。決して諦めないのはすでにわかっている。
無意識に手が動き、鞄から携帯を取り出した。ボタンを押し、体を固くして返事を待った。
「爽花? どうしたんだ?」
「あっ、慧。遅いのにごめんね。あの……最近、変わったことない?」
「変わったこと? 例えば?」
聞き返されて困った。瑠の名前を避けて、ぐるぐると頭を回した。
「えーっと……。女の子たちがいっぱい家に来るとか……」
「ファンクラブなら、ずいぶんと前に別れたから、今は一人も来ないよ」
「いや、ファンクラブのことじゃなくて……」
「爽花に隠れて、違う子と付き合ったりしないよ。心配しなくていいよ」
慧についてではなく、瑠について言っているのだ。
「じゃ……じゃあ、メールとかは? しつこく送られてきてない? あたしと付き合ってください、みたいな。ぶりっ子っぽいメール」
思いつく限りの例えを探したが、うまく伝えられない。弱弱しい口調で慧は呟いた。
「俺が愛してるのは爽花だけだよ。秘密もないし、嘘も誤魔化しもないよ? 不安にならなくても大丈夫だよ。……ごめん、もう寝るね。母さんも瑠も眠ってるし。続きは明日、学校で聞く」
はっと目を丸くした。瑠という一言に全身が震えた。
「待って。その瑠のこと……」
「じゃあお休み」
短く遮って、慧は一方的に切ってしまった。携帯を握り締め、がっくりと項垂れた。もう一度かけ直すわけにもいかず、悔しさで胸がいっぱいだった。




