二十八話
慧のお泊りで数日間はどきどきが続いた。うっとりとした状態だったが、ふと瑠の声が蘇った。お前にだけは爽花はやらないと慧が言ったら、最初から欲しくねえよ、そんなドジ女と吐き捨てていた。一時は安心したものの、やはり爽花をよくは思っていないのだと感じて空しくなった。許してもらえたというのは勘違いで、本当はまだ迷子になったことにイラついているのかもしれない。悶々と悩んでいるうちに冬休みは終わって、新学期が始まった。カンナは「お姉ちゃんが女の子を産んだ」と喜んでいて、名前はカンナの頭文字のKを取ってアンナにしたんだと輝く瞳で教えてくれた。ただそれだけで充分癒されるのは不思議だ。夕方になると一気に寒くなるという理由もあって、放課後にアトリエに通うのは避けた。瑠とは会わず、慧も瑠について一切触れなかった。二月になると学校中がバレンタイン色で染まって、女も男もそわそわする雰囲気に包まれた。爽花にとってバレンタインとは基本的に友人に渡すものであって、よくある友チョコをあげていたが今年は違う。相手はもちろん慧で、喜んでほしいと手作りを選んだ。お菓子作りなど経験がない上に、ドジをして塩と砂糖を間違えないよう注意した。綺麗にラッピングをして十四日に喫茶店で待ち合わせした。
「はい、バレンタインのチョコだよ。手作り」
「えっ? いいの?」
「いいの? って……。絶対もらえるって予想してたでしょ」
「まあね。嬉しいなあ。今までで一番嬉しいバレンタインチョコだ」
女子にモテない男子が聞いたら羨ましくなる一言だなと思った。バレンタインでなくても慧は常にチョコやお菓子をもらっていたという過去が浮かんだ。満面の笑みの慧を可愛い少年と感じるのは母性本能からだろう。誕生日プレゼントも贈ればよかったかなと残念な気持ちが生まれた。
「……他の男にはチョコあげてないよね?」
突然、口調が固くなった。名前は出さないが瑠のことだとわかった。
「慧だけだよ。女の子にも渡してないよ」
瑠のためにチョコを作らなくて正解だったと安心した。もし作ったら嫉妬で頭が狂うに違いない。あんなに怖い姿は二度とごめんだ。
「じゃあ、用は済んだから」
爽花が言うと、慧は大きく頷いた。
帰り道の間、ある疑問で胸が占領されていた。瑠は女の子からバレンタインチョコをもらったことがあるのかという疑問だ。他人や女の子と話すのが嫌いな瑠も、一人や二人には渡された経験があるかもしれない。うーんと腕を組むと、最初から欲しくないドジ女という声が心の中に響いているのに改めて気が付いた。しかもプライベートな質問に答えたくもないはずだ。仕方なく俯いて諦めることにした。
慧には言わなかったが、実はチョコが余ってしまった。自分で食べればいいが、せっかくだから他人に食べてもらいたい。しかし誰にあげればいいのかはわからない。ふと、瑠とまだ初対面の頃の出来事が浮かびあがった。爽花がいきなり瑠と呼び捨てにしても、文句も睨みもせずに反応なしなだけだった。
「瑠にあげてみようかな……」
チョコを渡された瑠の顔を見てみたい。突き返されたらそのまま捨ててしまえばいい。もし瑠がバレンタインチョコをもらったことがないのなら、爽花が初めて勇気を出した女子となる。慧と同じくラッピングをしたが、LOVEという文字は書かなかった。
久しぶりのアトリエへの道は、やけに長く感じた。ドアを静かに開けて、瑠の背中をしばらく眺めた。こっそりと深呼吸を繰り返してから「瑠」と呼びかけた。
「何だよ。集中してる時に邪魔するな」
不機嫌な瑠に、隠し持っていたチョコを差し出した。
「これ、よかったらどうぞ。バレンタインチョコ。手作りだよ」
えへへ、と微笑みながら、全身が震えるのを抑えた。不思議なものを見る目つきで、瑠は小さくため息を吐いた。甘いものを食べないという事実を忘れてしまったのかと呆れているような感じだ。
「俺は、こういうの嫌いだって知ってるだろ」
「知ってるけど、もしよかったらって思って……。まあ、好きでもないあたしから渡されても嬉しくないよね。おいしくもないし。邪魔なあたしのチョコなんていらないよね……」
予想通りの結果で苦笑したつもりだったが、ぽろりと涙が零れた。もしかしたら受け取ってくれると期待していたので、けっこうショックだった。
「……もういいや。捨てちゃおう……」
独り言を漏らしてアトリエのドアを閉めた。廊下をとぼとぼと歩いていたが「ちょっと待て」という言葉が耳に飛び込んできた。くるりと振り向くと、すぐ目の前に瑠がいた。
「捨てるくらいならもらう。せっかく作ったのに捨てるのはもったいないだろ」
驚いて爽花も戸惑った。意外すぎる態度で緊張した。
「でも甘いもの嫌いなんでしょ? あたしが作ったものなんていらないでしょ?」
「嫌いだけど……。作ったものを捨てるのはよくないだろ」
チョコを奪い取り、少し焦っている表情をした。やはり経験がなかったようだ。ただアトリエで絵を描いているだけでは、バレンタインチョコなんて絶対にもらえるわけがない。しかも独りきりだから、チャンスはゼロだ。ぴょんぴょんとジャンプしながら、大きく手を上に伸ばして万歳をした。
「やった! 瑠にバレンタインチョコ渡し計画、大成功! いつもそうやって女の子に優しくしていればいいんだよ」
「俺は、ただ捨てるのがもったいないって仕方なく受け取ったんだよ。勘違いするな」
尖った口調だったが満足だった。あはは、と微笑み、またジャンプをした。
だが突然、笑顔が真顔に変わった。瑠にチョコを渡したら、慧にバレてしまうではないか。大急ぎでチョコを奪い返し、鞄に突っ込んだ。
「やっぱりだめ。気持ちだけもらって」
「えっ? どうしたんだよ。いきなり」
「いいから。もう帰るね」
瑠の答えを待たずに、全力疾走で逃げた。冷たい風に当たりながら走り、しばらくして足を止めてチョコを近くの公園のゴミ箱に投げ捨てた。綺麗にラッピングしたチョコは汚らしいものとなって、空しい想いで叫びたくなった。
「……慧がいなかったら……」
慧がいなかったら、瑠にチョコレートを食べてもらえたのにと悔しかった。直接ではないが、慧に邪魔をされたと感じてしまった。しかし、そうして勝手に悪者扱いしてはいけない。一瞬でも考えてしまったことで、自己嫌悪に陥った。ぶんぶんと首を横に振って、暗い気持ちを吹き飛ばした。
翌朝、昇降口で慧が駆け寄ってきた。にっこりと穏やかな笑みで話した。
「さっそくいただいたよ。おいしかったよ」
どうやら瑠は慧に昨日の出来事を言っていないようだ。瑠がダンマリな性格でよかったと強く感じた。
「爽花って料理上手なんだね」
「そうかなあ……? 喜んでもらって嬉しいよ。作った甲斐あった」
照れて頬を赤くした爽花を、慧は抱き締めた。じわじわと暖かな体温が広がって眠くなった。
「いつかは爽花も食べるからね」
耳元で囁かれて、小さく頷いた。
周りの生徒に注目されないように、ぱっと慧は腕を放して四組へ行ってしまい、眠気は一瞬で消えた。小さくなっていく背中を見つめながら、自分には運命の人が存在しているのかと考えた。もし恋に落ちたら相手は慧なのか、それとも違う男なのか。爽花を愛し続けてくれるのは、どんな人なのだろう。大切な人と出会えるのかもわからないし、単に気付いていないだけですでに会っているのかもしれない。とにかく恋愛は細い綱渡りを一人で渡るのと同じほど難しいのだ。




