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二十七話

 居間の椅子に座らせてもお茶を淹れてテーブルに置いてみても、びくともしない。ストーブを点けたり夕飯の支度をしていると、泣き声が聞こえてきた。

「……何なんだよ、あいつ。いつも子供扱いしやがって。どうして勝てないんだ。負けっぱなしなんだ……」

「負けっぱなし?」

「そう。昔から俺は普通なのに、あいつは特別扱いなんだ。努力しても褒められるのはあっちで、どんなに頑張っても認めてもらえない。勝てない……」

 特別という言葉が心に引っかかった。なぜ特別なのか知りたいが、今の慧からでは答えは返ってこない。空しく悲しい想いが直接伝わり、可哀想で仕方がなかった。全部そっくりなのに、自分が下になるのは悔しいし辛いだろう。非の打ちどころがない慧が負けっぱなしと嘆く姿はあまりにも衝撃だ。

「慧は負けてないよ。みんな尊敬してるし、憧れてるんだよ? あたしだって、毎日すごいなってびっくりしてるんだよ? 慧が勝てないのは瑠だけ。明るいのが慧のいいところなのに、暗くなっちゃだめだよ」

 沈んでいる慧を少しでも支えてあげたくて、優しく包み込んだ。穏やかな声で「大丈夫だよ」と繰り返した。しばらくして、ようやく慧は笑顔になった。

「ごめん。泣いちゃって……。男のくせに馬鹿みたいだな」

「馬鹿じゃないよ。辛かったり悲しかったりしたら大人の男でも泣いちゃうよ」

 ははは、と苦笑して熱いお茶を飲んだ。慧も飲んで、お互いに深く息を吐いた。

「ちょっと横になってもいいかな」

 どうやら泣き疲れてしまったらしい。迷わずに頷いて、ベッドまで案内した。

「狭いけど、落っこちないかな?」

「少し休むだけだから。長居はしないよ」

 頭をさすっているので頭痛薬をあげようと考えたが、その前に部屋のドアが閉まった。

 少し休むと言ったのに、一時間経っても二時間経っても三時間経っても部屋から出て来なかった。さすがに心配になって見に行くと、完全に熟睡していた。壁にかかっている時計は、九時半を過ぎている。

「もう十時になっちゃうよ! 早く帰らないと……」

 声をかけて揺すってみても起きる気配がない。このままでは真夜中に突入して朝を迎える。

「お願いだから起きて!」

 もう一度叫ぶと、ゆっくりと寝返りを打った。しかし起きるわけではなかった。腕を掴まれて、爽花もベッドに寝てしまった。布団だと勘違いしているのか胸に引き寄せて足を絡ませてくる。細く長い腕の力は強く羽交い絞めにされて、逃げたくて堪らないのに指一つ動かせない状態だ。静かな寝息がちょうど耳元にかかって、ぞわぞわと全身が震えた。唇が額に当たってキスされて、血液が沸騰するほど燃え上がった。ここまで距離が縮んだのは初めてだし、何よりもかっこよ過ぎる慧と一つのベッドで眠るなど奇跡としかいいようがない。これは夢ではないかと悶々しているうちに、窓から朝日が差し込み始めた。うーん……と声が聞こえて、どきりと心臓が跳ねた。こういう時もハスキーボイスなのか。

「ん? あれ? 爽花?」

 勢いよく起き上がって、珍しく頬を赤くした。慧も照れるのだと意外な気持ちで苦笑した。

「起こそうと思ったら、逆に引っ張られちゃって……」

「そ、そうか。柔らかくて暖かいものがあるから、抱き枕かと思っちゃった。まさか爽花だったとはね」

 柔らかいという表現が何だかいやらしく感じたけれど、口には出さないでおいた。

「ちゃんと休めたの?」

 ベッドに横たわったままで聞くと、慧は大きく頷いた。

「うん。やっぱり爽花は俺の癒しだなあ」

 言いながら爽花の上に馬乗りになって、ぺろりと唇を舐めた。どきんと頭が狂いそうになって、あわわわわと冷や汗を流した。

「い……今のって……」

「キスじゃないよ。唇舐めただけ。キスは、もっとロマンチックな場所でするつもりだから」

 しかし触れ合ったのは確実なのだ。返す言葉がなく黙って目を逸らした。

「してもいいなら、ここでキスしちゃうけど」

「いやいやいや! 心の準備ができてないから後にして」

 首も手も横に振ると、今度は額にキスされた。完璧に慧のペースに乗せられているのが悔しかった。

 部屋から出てコートを着て玄関で靴を履いてから、くるりと振り向いた。

「ありがとう。いきなりお泊りしちゃって悪かったね」

「別にいいよ。瑠と仲直りしてね」

 真剣な声で伝えたが、慧は首を傾げた。

「たぶん無理だよ。まあ、うまくやってみる」

 涙を流した慧の姿が蘇って俯いた。泣くほど悔しい相手と毎日会わなければいけない苦しみは、どれほど辛いだろうと想像した。

「……爽花を娶るのは俺だからね。約束だよ」

「えっ? メトル?」

 メトルなど聞いたことがない。どういった意味だろうか。

「メトルって何?」

 素早く質問を投げたつもりだったが、慧はドアを閉めてしまった。



 舐められた唇に指を当て、あれはキスではないのかと考えた。ただ唇を舐めただけなのかもしれないが、爽花はキスだと感じている。初めてキスをした時、みんなはどんな気持ちになるのだろう。恥ずかしいけれど心地よい思い出となり胸に残るのだろうか。だがもし飽きられて捨てられて別れを告げられてしまったら、その思い出は最悪な出来事に変わり、逆に胸を張り裂く凶器となるはずだ。それが怖いから、いつまで経っても慧を好きになってもいいかどうか悶々としているのだ。慧はとても優しいし爽花を心の底から愛して可愛がってくれる。普通ならそのまま恋人同士になるのが自然な流れだが、爽花の場合は一度しっかりと悩んでから返事をするやり方だ。「ちょっと待って」という警告が頭のどこかで聞こえるのだ。全ては人生の中で無駄な時間を過ごさないため。相手に傷つけられて、なぜこんな人と付き合ったのかと嘆かないためだ。


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