十九話
「瑠のこと、教えようか?」
ふと慧が質問を投げてきた。
「でも、いらいらするって……」
「瑠について知りたいって、顔に書いてあるぞ」
びしっと指を向けられて、小さく頷いてしまった。
「自分のこと言わないからな。あいつは、子供の頃から俺より上なんだよ。同じ誕生日で外見もそっくりなのにさ。兄っていうのも、ちょっと瑠の方が大人っぽいイメージがあるって理由なんだぞ。もしかしたら俺が数秒早かったかもしれないのに。いつも黙ってて何考えてるのかわからないし、他人と関わるのが面倒くさくて、絵ばっかり描いてる変な奴なんだ。学校もほとんど授業に出ないのに成績は俺よりいいし、俺が女の子と付き合ってると呆れてるというか、馬鹿にしてるって思うんだ。こうして爽花と会ってることもね」
不機嫌な顔は瑠と一緒だ。そのまま慧は続けて話した。
「とにかく何においても俺が下になって、自分は特に努力もしなくても軽くこなせるんだぞって偉そうな態度がイラついてしょうがない。俺のこと、かなりだめな人間って考えてるのが明らかにわかるんだ」
確かに女馬鹿と呼んでいた。慧が劣等感を抱いているなんて、誰も予想しないだろう。
「でも、慧にはすっごくいいところがあるよ? 明るくて穏やかで、あたしのこと想いやってくれるじゃない。これは瑠にはないよ。むしろ慧の方が人間ができてるよ」
励ますつもりで答えると、慧は嬉しそうに微笑んだ。もう一人の慧を知って、残念な気持ちになった。睨んでいる慧など嫌だ。こういう笑っている慧だけしか見たくない。
「……瑠って、女の子好きになるのかな? 彼女とかいらないのかな?」
疑問が沸いて呟いてみた。同時に今まで周囲に繰り返しされた質問が蘇った。爽花自身も彼氏はいらないと決めているではないか。結婚せず子供も産まずに独身で生きていきたいと何回言いふらしてきたか数え切れない。恋愛は苦しいものだと信じ続けている。ついさっきだってお母さんになれるわけがないと話していた。
「さあね。油彩が彼女なんだろ」
吐き捨てるように答えて、慧は横を向いてしまった。爽花が相手に振り回されて一喜一憂して馬鹿みたいと話したら、急に慧は冷たくなった。調子に乗り過ぎたと爽花も反省した。もし出会った人が運命の人だったら、それこそ馬鹿みたいな人生を歩んでしまう。恋をして生きるのと、恋を知らないで生きるのは、どちらが幸せなのか。うーんと考えている爽花を、慧がぎゅっと抱き締めた。
「大好きだよ。欲しくて堪らないよ……」
熱っぽく少しいやらしい囁きが耳に飛び込んできて、ぞくぞくと全身が震えた。深呼吸をしても効果はなく、足から力が抜けていった。やばい、と胸の奥で焦っても、指一本動かせない。
「爽花は俺のことどう思ってる? 俺のこと好き?」
「え……えっと……」
口ごもってうまく声が出せない。頭の中が真っ白になって、返す言葉が探せなくなった。もし好きと伝えたら彼女になってしまう。どうしようどうしよう、と焦れば焦るほど脳がとろけていく。
その時、突然お腹が鳴った。ぐうう……と鈍い音だ。初めての感情に、体がおかしくなったようだ。
「もしかして、お腹空いてる?」
「いやいやいや! お腹なんか空いてないよ」
しかしまたお腹が鳴って、慧は軽く笑いながら解放してくれた。
「我慢しなくていいよ。俺も空いちゃった。どこか食べに行こう」
柔らかな声で余計恥ずかしさが増した。穴があったら入りたいと泣きたくなった。
二人が向かったのは中華料理店だ。たくさん食べられる上に爽花も慧も好きだったため、中華料理を選んだ。メニューに載っている料理の金額にぎくりとした。一番安い料理が、一〇〇〇〇円だった。
「あたし、お金払えない……」
素直に言うと、すかさず慧は答えた。
「俺が払うから心配しないで。だいいち、デートで彼女に払わせる男なんかいないだろ」
爽花は男子と食事をした経験がないため、デートの基本を知らなかった。友人とだと割り勘なので、デートもそうだと思っていた。
近くの席に座っていた客が、ちらちらと見つめてきた。「かっこよ過ぎでしょ、モデル?」「あの子羨ましい……」「うちの彼氏と取り替えてほしい」「どうやって告ったんだろう」と、ひそひそ声が聞こえて優越感の海に溺れた。照れて頬が赤くなるのを隠せなかった。
料理が運ばれてきても、指が固まって箸が握れない。数学の宿題も文字がへろへろで勉強どころではなかった。せっかくの高級料理なのに味わえないのだ。
「食べないの?」
慧にバレて、動揺しながらも首を横に振った。
「食べるよ。えっと……どれにしようかな……」
早く早く、と焦れば焦るほど震えが増す。箸が無理なのでコップは平気かと持ち上げたが、床に落としてしまった。大きな音を立てて、コップは粉々に砕け散って、客と店員の視線は爽花に集まった。先ほどひそひそ話をしていた女の子たちのセリフは、「うわっ、かっこ悪」「コップ落とすとかありえない」「小学生でもやらないよね」「彼氏可哀想」と、酷い言葉に変わった。嫉妬の想いも含まれているのだろう。逃げ出したいのに俯くしかできない。うっすらと涙まで溢れた。
「何見てるんだよ……」
慧がいらついた表情で椅子から立ち上がった。
「コップ割ったくらいで、そんな目で見るな。……行こう、爽花。もうここにいたくないだろ」
爽花の手を握り、無理矢理引っ張った。レシートと一〇〇〇〇円札を七枚レジに置くと、大股で店から出た。遅れないように爽花も走って追いかけた。
しばらくして、ようやく慧は足を止めた。くるりと振り返って優しく微笑んだ。怒っていると予想していたため、かなり驚いた。
「大丈夫? ガラスで怪我してない?」
「うん。……ごめんね。あたしがドジしたせいで。いっつもドジばっかりで……。あたし、本当にどうしようもない馬鹿だ……。だめ女だ……」
ぽろぽろと涙のしずくが溢れていく。かっこ悪く泣き、慧は苦笑した。
「だめじゃないよ。誰だって失敗するんだから。それに、俺が一番好きなのは爽花のドジなところなんだ。もっともっとドジな爽花になっていってほしい」
囁きながら、しなやかな指で唇に触れた。キスされると身構えたが、慧がキスしたのは額だった。
「……まだしないよ。俺は、お楽しみは最後に残しておくタイプだから。完全に熟して甘くなってから、おいしくいただくつもりだよ。心の奥まで、一つ残らず」
痛いほどの鼓動で、めまいを起こしそうになった。倒れないよう足の力を保ち、高鳴る胸を抑えつけた。
「もうあの店には行けないね。まあ、別に行けなくても困らないけど。爽花が傷つけられるのは嫌だしね」
慧に大金を払わせたと申し訳なくて悲しくなった。絶対にあの料理は七〇〇〇〇円もしないはずだ。それなのに責めない慧の優しさに包まれ、また涙が溢れた。




