十六話
あまりにも衝撃が強かったせいか、うつらうつらとしか眠れなかった。朝から頭痛がして、学校を休もうかとも考えた。けれど勉強に遅れるのは避けたいので、薬を飲んで我慢した。
昇降口で靴を履き替えていると、慧がそばにやってきた。
「おはよう。具合悪そうだね」
「あんたの兄のせいで、ほとんど寝てないのよ」
恨めしく睨み、はあ、とため息を吐いた。
「兄? ああ、ルイに会ったのか」
「ルイ?」
「そうだよ。あいつの名前はルイだよ。瑠璃の瑠って漢字だよ」
けれど瑠璃の漢字がわからない。いちいち難しい漢字を使わないでくれ、と名付け親に伝えたかった。
「瑠に噛み付かれたのか?」
爽花の思いを無視し、慧が覗き込んできた。
「噛み付かれた?」
「あいつ、他人と話すのが嫌いなんだよ。特に女の子。少しでも不快になると、文句言いまくるからね」
確かに初対面の爽花をお前と呼んだり、出てけと冷たくあしらったり、失礼な奴だった。
「水無瀬瑠くんか。へえ……。けっこうかっこいい名前じゃない」
「瑠って呼び捨てしてみたら? どういう反応するのか面白いじゃん」
完全に遊んでいるなと、こっそり睨んだ。水無瀬家の双子の兄弟は性格に難ありだ。外が綺麗でも、中が綺麗でなければ完璧とはいえない。
「瑠くんって、絵を描くのが得意なんだね。昨日薔薇の絵を見たけど、すごく綺麗だったよ。プロ並みだよ」
驚いたように慧は目を丸くした。
「えっ? アトリエに入ったの? あの美術室、使ってないから瑠のアトリエになってるんだ。他人があそこに入るのは不可能なんだけど。怒られなかった?」
それは知らなかった。うーんと腕を組んで、すぐに答えた。
「どうだろう? 用がないなら出てけとは言われたけど、あれって怒ってたのかな?」
頭に来ている状態ではなかったはずだ。怒る姿を見たことがないため、実際はどうなのかわからない。
「あたしがアトリエに入ったのも、瑠くんがどこかに行ってた時だったから、お互いに誰だ? って感じだったよ。双子って聞いて、本当にびっくりした」
突然、慧は爽花を壁に押し付けた。よくいう壁ドンというやつだ。真っ直ぐな眼差しに、どきどきと心臓が速くなっていく。そういえば勝負をしているのだと忘れていた。
「ちょっと……」
情けなく声が震えてしまった。逃げたいのに指一つ動かせない。悔しいが、慧の魅力は認めるしかない。素晴らしい素材でできた品のよいお人形みたいで、非の打ちどころが全くないのだ。慧は爽花の髪に触れて、にっこりと微笑んだ。
「爽花、俺の彼女に」
言いかけたが、慧の携帯が鳴った。まるで爽花を助けるようなタイミングだ。面倒くさそうに「何だよ」と呟いて、かけてきたのが瑠だとわかった。
「いちいちうるさいな。兄だからって調子乗るなよ」
不満だらけな慧を見て、逃げるチャンスだと閃いた。慌てて教室へ走り自分の席に着いた。とりあえず一組にいれば、四組の慧は近づけないと安心した。
だんだん薬の効果が切れて、頭の痛みが酷くなった。「休みたい」と教師に告げて、保健室に向かった。以前も保健室で慧に寝顔を晒してしまった。まだ本性を知らなかった平和な時だ。
けれど、足は違う方向に進んだ。第二美術室、瑠のアトリエだ。また薔薇に酔いしれたくなったのだ。音を立てずに静かに歩いて、ドアの前で深呼吸をした。他人、特に女の子と話すのが嫌いな瑠に会いたくない。どうか無人でありますようにと祈って、そっと開けた。
キャンバスに描かれた白薔薇が、爽花を迎い入れてくれた。瑠の姿はなく一歩一歩近寄って、咲き誇る花に堪能した。
「綺麗だなあ……」
「何しに来た」
背中から、太く低い声がかけられた。はっと振り返ると、瑠がじろりと睨んでいた。
「邪魔するなって言っただろ」
「邪魔しに来たんじゃないよ。絵を見に来ただけだよ」
「途中なんだよ。最後まで集中して描きたいから、さっさと出てけよ」
しっしっとハエを払うように手を振り、瑠は椅子に座った。パレットに絵具を乗せて、筆でかき混ぜる。水彩とは違い、油彩はとても難しそうだ。爽花には決してできない業だ。
「……瑠って、絵を描くのが上手だね……」
勢いよく瑠は爽花に視線を移した。あっ、と爽花も口を覆った。
「ご、ごめん。慧に名前教えてもらったんだ。いきなり呼び捨てにしてごめん……」
少しでも不快になると噛み付いてくる。どんな文句を言われるか身構えたが、瑠は黙ったまま絵画の続きを始めた。意外な態度に驚いたせいか頭痛も消えてしまった。
「……あたし、教室に戻るね。頭痛かったんだけど、なんか治っちゃった。……勝手に名前呼び捨てにしてごめんね……」
深くお辞儀をしたが、瑠は無視していた。自分だけの世界に入っているのだと想像して、ゆっくりとアトリエのドアを閉めた。




