十五話
来てほしくない学校生活が始まった。慧と嫌でも会わなければいけない。違うクラスでよかったと安心した。
「おはよう、爽花」
何も知らないカンナは、少し日焼けしていた。海にでも遊びに行ったのかもしれない。高校初めての夏休みは、楽しい記念日になっただろう。ぎくしゃくしたくないので、慧の名前は隠した。
「おはよ。まだ暑いね」
「ほんとほんと。宿題、大変じゃなかった? 爽花は一人でやったの?」
慧と宿題をした時が蘇り、無理矢理苦笑した。
「うん。特に英語と数学は多かったよね」
「へえ……。一人で終わらせたなんて、爽花すごいね。私、お姉ちゃんに半分やってもらっちゃった」
カンナには、六歳年上の姉がいる。すでに結婚していて、お腹に子供がいるらしい。「お姉ちゃん、羨ましいなあ。優しい旦那さんと結ばれて。私も素敵な人と出会えたらなあ」は、カンナの口癖だ。もちろん爽花は結婚も出産も望んでいない。たとえカンナが結婚して子供を産んでも、自分もこうなりたいとは思わない。
「早く赤ちゃん、産まれないかなあ。名前は私が付けるんだ」
「そうなんだ。楽しみだね」
ふとドアの辺りから視線を送られているのがわかった。絶対に慧なので、振り向きはしなかった。こちらが避けていれば、事故は起きないと信じていた。だが現実は甘くない。休み時間に廊下を歩いていると、慧が背中から声をかけてきた。
「さっき、ずっと見てたんだけど。気付いてたよね?」
うん、とも違うとも答えず無言のままだったが、ぎゅっと手を掴まれた。
「どうして無視するんだよ」
「あたしは、女好きとは関わりたくないの。よくあるツンデレとかじゃないから。勘違いしないで」
睨みつけると、ふん、と慧は腕を組んだ。
「酷いなあ。俺は女好きじゃないぞ。たくさん女の子と付き合ってはきたけど、俺から告白したのは爽花だけなのに。勘違いしないでくれ」
「恋愛をしたくないって、何度言えばわかるの。いくらモテる人でも、恋人になるのは嫌なのよ。これ以上つきまとったら、みんなに女好きだってバラしてやる」
怒るのではなく、逆に嬉しそうに慧は微笑んだ。
「バラせば? どんな目に遭ってもいいなら」
爽花にとって不利な出来事が起きるのだと伝わった。悔しいが、慧の本性を明かすのは無理だ。というか、あんなに騒いでいた取り巻きはどこへ消えたのだろう。
「ファンクラブの女の子の方が可愛いよ。あたしなんかより、ずっとおしゃれだし」
「あいつらとは完全に別れたよ。全員泣いてたし、私には水無瀬くんしかいないんですとか水無瀬くんがいなくなったら死んじゃいますとか言ってたけど、俺には爽花しか見えてないからね」
すでに裏でファンクラブとは切れていたのか。女の子たちの恋心を踏みにじったという行為が許せなかった。
「卑怯者。信用したのが馬鹿みたいだった。でも全部わかったから、次は騙されたりしない」
強気なのが気に障ったのか、慧は少し睨む目つきに変わった。
「ずいぶんと偉そうだけど、いいのかな。俺は、爽花の電話番号もメールアドレスも、どこに住んでるかも一人暮らしってことも知ってるんだぞ」
はっと驚いて、ぎくりと心が冷たくなった。そういえば、自分から何もかも教えてしまった。慧は爽花について詳しいが、爽花は慧について無知だ。
「別に……関係ないよ。あたしが怖がると思ってるの?」
とにかくこの男と関係を断ち切らなければならない。慧は面倒くさそうに息を吐き、指を差し出した。
「じゃあ勝負しよう。この高校三年間で、爽花が俺に惚れたら素直に彼女になる。卒業しても変わらなかったら、俺は金輪際、爽花を追いかけるのはやめる」
ふふん、と爽花も笑い、低い声で即答した。
「いいよ。慧に負けるほど、あたしヤワじゃないよ。彼氏なんかいらないもん。逃げ切ってみせるよ」
「どうかな。意外とすぐ勝負がつくんじゃないの?」
捨て台詞を残して、慧は歩いて行った。後ろ姿が消えるまで、爽花は睨み続けていた。
「……逃げ切ってみせる。あんな奴と付き合ったら、人生台無しになるもん……」
恋愛ほど苦しいものはない。相手の態度に一喜一憂して振り回された上に捨てられるなど最悪じゃないか。恋愛をしない人生が空しいのは嘘だ。人間みんな一人きり。ずっと好きな人とそばにいるのは一握り。触らぬ神に祟りなしという爽花の考えは間違っていない。
慧から逃げるためには、誰もいない場所がなくてはいけない。図書室はだめ、いじめに遭った空き教室もだめとなると、一体どこに隠れればいいのか迷ってしまう。暇さえあれば、校舎の様々なところへ行き、秘密の隠れ家を探した。森羽高校は学校の敷地が広いため、必ずどこかにはあるはずだと信じていた。
そんなある日の放課後、廊下を進んでいたら不思議なニオイが漂ってきた。よくも悪くもなく、うまく説明できない独特なニオイだ。普通だったらそのまま通り過ぎるのに、なぜか興味が沸いた。あてもなくぶらぶらと歩き、辿り着いたのは第二美術室だ。この学校はそれぞれの教室が第二まであり、実際に使うのは第一で、第二は物置として扱われている。どうやら美術室は誰かに使われているようだ。恐る恐るドアを開いて覗いてみると、ちょうど真ん中にキャンバスが置かれているイーゼルがあった。イーゼルの前には椅子、その椅子の左右には机がある。スケッチブックや筆が無造作に乗っていて、足元には油彩絵具が入ったプラスチックの箱もあった。キャンバスに描かれているのは白い薔薇の絵だった。写真のように繊細で、派手でも地味でもない美しい白薔薇が咲き誇っている。
「わあ……。綺麗……」
呟きながらキャンバスに近付いて、うっとりと酔いしれた。あの独特なニオイは油彩絵具だったとわかった。
「部屋に飾りたい……」
もう一度呟き、試しに椅子に座ってみた。見事な作品に感動し、自然に笑顔になった。爽花は絵の才能がゼロなので、こういったものを作り上げる人に憧れる。
突然、誰かの足音が耳に飛び込んできた。しかもかなり早い足音で、慌てて立ち上がった。隠れる場所がなく硬直しているとドアが開いた。入ってきた人物の顔で、衝撃の雷が降りかかってきた。紛れもなく慧だった。まずい、と焦り過ぎて床に尻もちをついた。柔らかな絨毯が敷いてあるが、うっ、と声が出てしまった。
「どうしてここに来るのよ」
冷や汗を流しながら怒鳴ったが、慧は腰に手を当てて見下ろした。
「それはこっちのセリフだ。お前、どうしてここに」
ふとあることに気付いたらしく、じろりと睨みつけてきた。
「もしかして、お前が新井爽花って奴か」
「はっ? なに言ってるの?」
答えながら、爽花も戸惑った。慧よりも背が高く、髪の色も濃い。暗い声に仏頂面。
「あれ? 慧じゃないの……?」
独り言のつもりだったが、慧にそっくりの男は固い口調で言い切った。
「慧は弟の方だ。双子だから兄弟なんて関係ないけど、一応俺が兄になってる」
「双子?」
まさか慧に双子の兄がいたとは夢にも思わなかった。そういえば、夏休みの宿題の時にスケッチブックを買いに行けと電話をかけられて、慧は「自分で買いに行けよ」と答えていた。デパートでぶつかってきたのも、この兄だったのだと直感した。
「……どうして、あたしの名前知ってるの?」
額の汗を拭い、そっと聞いてみた。
「あの女馬鹿が、新井爽花に惚れたってうるさかったからな。あいつから女に惚れるのは初めてだから、少し意外だったんだよ」
やはり兄なので慧の性格も知っている。女の子にモテるので、女馬鹿だと呼んでいるのだろう。
「用がないなら出てけ。絵画の邪魔しないでくれ」
ぶっきらぼうな態度にイラっとして言い返そうと思っても、頭が真っ白で何も浮かばない。無駄に時間を作るのはもったいないので、黙ってアパートに帰った。




