一三一話
ぼんやりとしていると、いつの間にか卒業式当日となった。靴箱に花束の入った紙袋を隠しておいた。ちらちらと時計を見ながら、式が始まって一時間ほど経って体育館から勢いよく飛び出した。新井さんっ、と呼び止める声も聞こえたが無視だ。大急ぎで靴を履き紙袋を掴んで駅に向かった。間に合わなかったらと苦しくても全力疾走だ。慧に教えてもらった通り素早く電車に乗って速く動いてくれと願った。電車から降りるとまた全力疾走し、空港の近くで足が石のように固まった。空港にいる人間の数に愕然とした。日本人だけではなく外国人も大勢いて、みんな大きな荷物を持っているせいで奥が見えない。ざわざわと周りから音がして自分の話した言葉もかき消される感じだ。ここから瑠だけを探すなど不可能だ。まるで砂漠で水を探すみたいだ。爽花にとって空港は初めてで、こういう場所だとは全く予想していなかった。
「ど……どうしよう……」
がくがくと震えて冷や汗が噴き出した。さっさと見つけないと花束も最後の挨拶もできず終わってしまう。ゆっくりと歩き、とりあえず中に移動した。邪魔にならないように隅に立ち、緊張で速くなる鼓動を落ち着かせた。目をぎゅっとつぶり倒れそうな体を支えた。
「瑠……。どこに……」
掠れた声で呟き、出口のない迷路にはまったと嘆いた。だがその瞬間、ふとある言葉が蘇ってきた。爽花には特別な力があるという言葉だ。爽花しか持っていない力。それは、宇宙のように広く深い大きな愛。血が繋がっておらず突き放されても瑠を追いかけ続けた恋心だ。家族も放っておいたのに、爽花だけは助けて護ってあげたいと、独りぼっちにさせないという想いでいっぱいだった。本当に瑠を心の底から愛しているのならきっと会えるはずだ。どんなに距離が遠く離れていても、愛は繋がっていられる。たとえどちらかが亡くなっても愛は続いていく。ぐっと拳を作り、何も迷ったりせずに真っ直ぐに進んだ。絶対に瑠に花束を渡せるとだけ信じて大股で歩いた。しっかりと一歩一歩踏みしめていると、視界の端に黒い見慣れたコートが映った。爽花が貸してもらったこともある厚手のコート。汚さないように気を付けて着た瑠のコートだ。慌てて振り向くと、やはり瑠だった。ばくんばくんと耳の奥から心臓の音が響いてきた。
「ま……待って……!」
もちろんそれだけでは瑠は気付かない。はあはあと荒い息で辛くても、頑張って大声で叫んだ。
「る……瑠! 待って! 行かないで!」
すると瑠はぴたりと足を止めた。爽花も瑠のすぐ後ろに走って移動した。
「瑠……」
もう一度呼ぶと、瑠はゆっくりと振り返り爽花の顔に視線を向けた。
「……どうしてここにお前がいるんだよ。卒業式だろ、今日」
不思議なのも無理はない。たぶん今頃クラスメイト達は校長から卒業証書をもらっているだろうと予想した。もしかしたら爽花が来られないようにあえて卒業式に旅立つと決めたのかもしれないと、ふっと考えた。爽花が式に出ていたら、こっそりと自分はフランスに行ける。そうすれば最後まで会わずに離れられる。
「卒業式に出てたら瑠がフランスに飛んでっちゃうでしょ。よかった。まだ日本にいて……」
「俺がフランスに行くって、どうして知ってるんだよ」
「慧が教えてくれたの。フランスで絵の勉強をするんでしょ」
絵の勉強ではなく、ただ爽花と慧が付き合っているところを見て惨めになりたくないためだろう。余計な話はせず黙ったまま紙袋に入っていた花束を瑠の前に差し出した。
「何だよそれ」
「花束だよ。イチジクさんが作ってくれたの。瑠の輝かしい未来を願ってね。勉強頑張れっていう応援だよ」
作ってくれと頼んだとは言わなかった。イチジクの気持ちだけ伝えて他の話はしない。ふん、と瑠は睨んだ。
「まだこんなことしてんのかよ。あいつに疑われるぞ。おまえはあいつの」
「恋人じゃないよ」
すかさず遮った。瑠は珍しく目を丸くしている。
「恋人じゃない?」
「慧が別れようって言ったの。もうただの友だちになったの。爽花が惚れているのは俺じゃなくて瑠だろって教えてもらった。幸せにするのは瑠だから俺は諦めるって言ってくれたの」
しぼみそうな心を強くし、瑠の驚いた表情を見た。
「瑠は、好きな女の子に花束を贈るんだよね。花を描いた絵をプレゼントするんでしょ。だからあたしも好きな瑠に花束を贈るよ。あたし、瑠が大好き。愛してる」
瑠だけではなく、油彩もアトリエも愛しい。癒されるかけがえのない宝物だ。
「瑠は、あたしが嫌いだし興味ないし邪魔扱いしてるよね。でも、それでも構わないから最後に伝えたかったの。ちゃんと自分の口で、瑠を愛してるって言いたかったの」
あまりにも意外だったのか、瑠はよろりと後ずさった。黙って俯き視線を合わせようとしない。
「いきなりでごめんね。とにかく、あたしが惚れているのは瑠だって知ってほしかった。知らせないでお別れなんて悲しいもん」
告白は初めてだし恥ずかしくて舌を噛みそうなのに、冷静にスラスラと発言しているのが不思議だ。いつもはドジを踏んで失敗ばかりなのに。
「瑠……。聞いてる?」
「お前は救いようのない馬鹿だな」
低く太い声にびくっとした。まるで怒っているみたいだ。
「えっ……」
「お前、言ってただろ。頑固でだめ男と付き合ってられないって。独りで寂しく死ねばいいって。それなのに愛してるなんて馬鹿としか言いようがない」
「……だけど、しょうがないじゃん」
想いを寄せていたのは爽花のみで、瑠は興味がなかったのかと残念でいっぱいだ。ショックを受けている爽花に、瑠はもう一度話した。
「そして俺も救いようのない馬鹿だ。離れ離れになってから、お前に惚れてるって気づくなんてさ。こんなところまで共通してるのかよ」
「ほ、惚れてる?」
衝撃で声が大きくなってしまい素早く口を塞がれた。
「周りにバレたら恥ずかしいだろ。まあ俺もさっき倒れそうになったけど」
わかった、わかったと繰り返し頷くと、覆っていた手のひらは放れた。
「あたしたちって、本当にそっくりだよね。好きな色も考え方も……。びっくりする」
呟くと、瑠がそっと抱き締めてきた。どきどきと胸が暖かくなる。
「わっ……。な、なに?」
「やっと俺のものになったってわけか」
「俺のもの?」
「そうだ。ずっと欲しかったんだよ。もう我慢しなくていいんだな」
瑠が我慢しているのは爽花なのは当たりだった。人物デッサンのためかはわからないが、とにかく慧の言う通りだった。双子は兄弟よりも関係が近いから以心伝心するのかもしれない。産まれた日も時間も場所もほとんど同じなのだから、まるでもう一人の自分みたいだろう。
「……それって、両想いになって嬉しいって意味?」
「大体そんな感じ」
それにしてはやけにぶっきらぼうな口調だ。せっかくの愛の告白なのにもったいない。もっとロマンチックな雰囲気がいい。しかし瑠は一切感情を見せないため、これが普通なのかもしれない。
「瑠って欲しがりじゃないんだよね?」
「そうだ。でもお前に会って、お前がそばにいて、俺には必要な宝物があったんだって知ったんだよ。誰にも奪われたくない生きがいってやつだな。ただし、知ったのは別れてからだ」
「別れてから……」
どんなものも失ってからこんなに大切だったのかと気付く。自分のものではなくなってから、手放さなければよかったと嘆く。しかし過去は変えられないため元には戻らない。
「服も友人も全部あいつにやるけど、お前だけは取られたくない」
さらに胸が暖かくなり、どきどきと鼓動が速くなっていく。うっとりと眠くなってくる。
「それなら、瑠も愛してるって言って。好きって口で言ってよ」
瑠の性格にとっては難しいことだが、はっきりと届けてもらいたい。
「面倒くせえな……」
「いいじゃない。最後にいい夢を見せてよ」
「最後?」
ぱっと背中に回していた腕を外し、瑠は後ずさった。
「最後って……。何だよ」
「最後でしょ。今日でさよならなんだよ。あたしたち。瑠はフランスで暮らすんでしょ? 日本に帰ってこないんでしょ?」
フランスに飛んでいったら二度と再会できない。寂しくて堪らないが、瑠の画力を上達させる方が優先だ。もっと上手く絵を描きたいという夢を叶えてあげたい。
「フランスでも元気でね。あたしと過ごした日々、どうか忘れないで」
「お前は正真正銘の馬鹿だな。両想いになれた恋人と離れて生きる奴なんかいないだろ。ついさっき生きがいだって話したのに」
曇っていた目が突然大きくなった。
「ええっ? じゃあ帰って来るの?」
「帰ってこないって決めたのは、俺がいるとお前とあいつの邪魔になるから消えようって意味で、お前が俺の彼女になるなら必ず日本に戻る」
惨めになるからではなく、単に爽花と慧が二人きりで幸せになれるようにという理由だったようだ。これもまた瑠の優しさだ。
「そうなんだ。また会えるんだね」
「会えるし結婚だってできるぞ」
空しかった心が晴れ渡り、自然に笑顔に変わった。
「嬉しい。すっごく嬉しい。結婚なんて……。奇跡としか言いようがないよ。どれくらいで帰ってこれるの?」
瑠は腕を組み首を傾げてから答えた。
「六年はかかる。絵は一年や二年で上達するものじゃないしな」
「ろ、六年も? 二十四歳まで離れ離れなの?」
現実の厳しさをひしひしと味わった。俯くと瑠は励ますように話した。
「寂しかったら、あいつに可愛がってもらえよ。恋人にもなったほど仲良しなんだから、俺がいない間はあいつの彼女になってやれ」
慧の存在をすっかり忘れていた。別れたといってもお互いに大好きだし、瑠と結婚したら家族になれる。落ち込む必要はないのだ。爽花が甘えてきたら慧も喜ぶだろう。
「そっか……。瑠は独りで大丈夫?」
「慣れっこだからな。むしろ他人と付き合う方が辛い。お前は立派な女に成長しろよ。一人前になって子供を産んで護れる母親になっておいてくれ」
出産が怖くて震えそうになったが、みんなが幸せになるのはそういう痛みも経験しなくてはいけない。
「めちゃくちゃ美人に変身するよ。ドジも治して。びっくりさせちゃうよ」
「頑張れよ。期待してるぞ」
ふっと柔らかに瑠が微笑み、慧にも潤一にも似ていて驚いた。血が繋がっているのだとじんわりとして飛び込むように抱き付くと、瑠も強く抱き返してくれた。