一二九話
瑠と両想いになれて嬉しかったのに、フランスに飛んでしまったら結局離れ離れになってしまうと空しくて堪らなかった。パスポートも持ってないしフランス語は話せないし空港だってどこにあるのか。何もできず、ただ時間が過ぎていく。慧から、やはり瑠は卒業式に旅立つと教えてもらった。独学だから、いちいち式に参加する必要はない。フランスで美術を学ぶなら大学に入学するのか。それともまた独学か。せめて爽花のように応援し褒めてあげる人がいたら……。
瑠のいないアトリエに行くと凍り付く空気が爽花の胸を引き裂いた。たくさんの思い出が白く塗りつぶされ涙が零れた。この狭い場所でどんな出来事が起きたかは爽花と瑠しか知らない。どちらかが忘れたら幻となる。爽花は死ぬまでアトリエでの記憶を覚えていく使命があるのだと改めて感じた。いつか瑠は新しい愛を受けて爽花は消えてしまうだろう。しかし妬んではいけないのはわかっている。爽花のわがままで輝く瑠の人生を汚すのは絶対に嫌だ。爽花にはすでに慧という優しい王子様がいるのだから瑠も欲しいと考えてはいけない。そもそも瑠は両想いだと自覚していないし、いざ告白しても頑固な性格では否定し続けもっと距離を置こうと逃げるはずだ。慧の予想は確かに当たっている。ごしごしと涙を拭って、決してあのひとときを失くさないと誓った。卒業したら爽花もアトリエに入れないのだから。
「さよなら……。アトリエ……」
そっと呟いてくるりと後ろを振り向き歩いた。爽花も瑠と同じく新しい生活が始まる。さっさと切り捨てて諦めた方がいい。
そんな爽花をよそに、誰が始めたのか卒業記念イベントを行うとカンナから聞かされた。緊張した口調でカンナは詳しく説明してくれた。
「高校で惚れてた男子に告白しようってイベントだよ。卒業したらみんなバラバラになるから、その前に思い切って告白しちゃおうって内容」
「惚れてた男子に?」
「いない人は参加しなくても構わないよ。告白は手紙でも贈り物でもいいけどお金は禁止。愛しいあなたにプレゼントだよ」
「愛しいあなたに……」
瑠は愛しい爽花に花束として絵を贈ってくれた。ふとあることを思いついた。
「それって花束でもいいの?」
「花束? まあいいんじゃない? 花束って変わってるね」
「ロマンチックって言ってよ」
「そっか。ロマンチックなイメージもあるね。爽花は花束作れるの?」
「大丈夫。すっごく花束を作るのが上手い人を知ってるから」
ふっとカンナは微笑み、爽花の手を握り締めた。
「大好きな人が見つかってよかったね。恋人なんかいらないって昔は言ってたけど、ちゃんとわかったんだね」
「うん。恋なんてしないって決めて、あたし馬鹿だったよ」
「そうだよ。あたし、爽花に幸せになってほしいの。独りぼっちなんて辛いでしょ?」
ぎゅっとカンナが抱き付いてきて、爽花も抱き返した。暖かな親友の熱が心を和やかにする。
「カンナ、ごめんね。冷たい態度とって……。また仲良くしてくれる?」
「もちろんだよ。あたし爽花がいないと生きていけないよ。大学生になっても親友でいたい」
優しい声に自然に笑顔になった。ちぎれそうだった友情の糸が元に戻った。
「違う学校でもいっぱい遊ぼうね。夏休みにはお姉ちゃんも誘って沖縄に行こう。アンナちゃんも大きくなってるし。約束だよ」
「ありがとう。楽しみにしてる」
しっかりと頷くとカンナは満足そうに笑って歩いて行った。カンナの体温が、空しい気持ちを少し軽くしてくれた。
放課後、学校から出ると真っ直ぐイチジクの屋敷に向かって走った。まるで爽花を待っていたかのようにイチジクはドアの前に立っていた。
「あっ、爽花ちゃん」
「お久しぶりです。あの、いきなりで申し訳ないんですが、もう一つ花束を作ってほしいんです。瑠のために」
「瑠くん?」
「瑠はフランスに行ってさらに絵の勉強をするんです。そのままフランスで暮らして日本に帰ってこないんです。だから最後のお別れの挨拶と勉強の応援で花束を渡したいんです」
イチジクは衝撃で表情を暗くした。再会できない上に住む国まで異なるとショックを受けている感じだ。しかしすぐに笑った。
「なら、特大の花束にしなきゃいけないね。とびきり豪華な瑠くんに喜んでもらえるような花束にしなくちゃ」
「作ってくれますか?」
「大事な瑠くんのためならどんなこともするよ。できるだけ早めに完成させるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
深く頭を下げると、イチジクはその頭を優しく撫でた。
あと他にやるべきことはないかと考え、慧に空港の場所を聞いた。どの空港を利用するか慧は知っているはずだ。詳しく説明されたが理解できない。地図を広げてもどこにあるのかわからない。
「大丈夫? 俺もついて行こうか?」
「いい。あたしが一人で瑠に会いたい。会って全部伝えたい。誰にも邪魔されたくない」
慧は大きく頷き、寂しげに微笑んだ。
「愛してるって……告白するんだね」
「うん。馬鹿にされても無視されても逃げられても……」
始めからこの恋愛は終わっていたのだからと諦めもついていた。ただ、何もしないで別れるのは嫌だ。瑠が花束を渡してくれたお返しで、爽花も花束を贈りたい。いつかは花は萎れてしまうが、それでも構わなかった。
「間に合うよね?」
慧に情けない小声で言うと、すぐに答えは飛んできた。
「間に合うよ。きっと渡せるよ」
「そうだよね。信じてれば……叶うよね……」
弱々しく俯いてしまう。両想いになれたからといって幸せを確実に掴めるわけではなく悩みはまだまだ多い。この高い壁を乗り越えるとようやく楽園への扉に近付く。
「そういえば、フランスに行く日を質問した時にもう一つ違う質問をしたんだ。お前にはほしいものがあるんだろって。奪われたくない宝物があるんだろって。ダンマリだったけど間違いなく爽花だと感じたよ。瑠がほしいのは爽花の深い愛。爽花は母親みたいに暖かな愛を持ってるからね。となりに座ってるだけで愛は芽生えるって本当だったんだ」
「……うん。あたしも、からからに渇いた胸を新しい愛で満たしたいの。人は愛がなきゃ生きていけないもん。先生は亡くなったから次はあたしが瑠を愛してあげるんだ。……とは言っても、もうすぐ関係は切れちゃうけど」
励ますように慧は口を開いた。
「関係は切れるわけじゃないよ。俺の双子の兄なんだから。あいつも爽花と一緒にいた時のこと忘れないよ」
だが爽花は頷けなかった。あんなに酷い別れ方をした相手など、さっさと記憶から消したいだろう。愛してくれる人と過ごす日々で失くなってしまうのは確実だ。
「慧には、お世話も迷惑も数え切れないほどかけてごめんね。最後は彼女じゃなくなったし……。ごめん……」
「どうして謝るんだよ。謝るのは俺の方だろ。疑って傷つけて泣かせて……。ストレスまみれで苦しかっただろ」
「だけどやっぱり悪いよ。これからは仲良しの友だちとして、ずっとそばにいて」
柔らかく伝えると力強く慧は抱き締めてきた。恋人同士じゃなくなっても慧は爽花を想っていると、はっきりと届いた。