一二八話
アパートに帰ってから、クローゼットの奥に立てかけられているキャンバスを取り出した。へっこんで色も灰色にくすんでしまったが、心が暖かくなった。
「瑠も、あたしのこと好きでいてくれたんだね……。嬉しい……」
やはりこのキャンバスは意味があったのだ。いつ爽花への想いを感じたのかはわからない。しかし慧の言う通りだと思った。キャンバスを受け取って爽花は感涙したが、もしかしたら瑠は残念だったかもしれない。単にプレゼントを渡されたというだけで愛の告白だと伝わらなかったと少し悲しかったかもしれない。
「あたしって、すっごく馬鹿だから……」
もっと頭のいい人なら、たぶん瑠の想いは届いたはずだ。けれど、もう両想いだとわかった。ぎゅっとキャンバスを優しく抱き締めた。
翌朝、さっそく慧に声をかけた。胸がうきうきと弾んで仕方がない。
「ねえ、瑠はどこにいるの? 会わせてよ」
両想いなら喧嘩も許してくれるはずだ。再会したら、きっと瑠は喜んで笑うかもしれない。しかし慧は首を横に振った。
「それは無理だよ」
「えっ? どうして?」
「だって、あいつはまだ爽花に愛されてるって聞かされてないんだよ。自分はずっと孤独のまま生きるって考えてる状態だよ。しかも、あいつは何年も独りぼっちのまま暮らしてきたんだ。誰にも相手にされず、放っておかれて。それなのにいきなり両想いでしたって話して簡単に信じると思う? もともとあんな性格だし、そんなわけないって絶対に否定するよ。逆に驚いてもっと遠くに逃げるかもしれない。爽花は、いきなり瑠に両想いだったって言われて、そうだったのか、じゃあ恋人同士になろうねって素直に思える? びっくりして怖くならないか? おまけに喧嘩した奴だよ?」
「だ、だけど、会うだけなら問題ないでしょ? 久しぶりに顔見たいの。告白じゃなくて、酷い悪口言ってごめんねって謝りたい」
しかし慧は黙って頷かない。一体どうしたのか。
「まさか……瑠も先生みたいに病気で……」
「死んではいないよ。ただ、頑固で自分の意思は曲げないから……。再会しないって怒鳴っちゃったから、本当に二度と会わないって頑なに拒むのは目に見えてるじゃないか。それに」
「それに?」
嫌な予感がした。慧の暗い表情に冷や汗が流れた。
「あいつ、フランスに行くんだ。フランスで本格的に絵の勉強するんだよ。花しか描けないから、次は人間や動物の練習もしたいって前から言ってたし。しかも日本に帰ってこないんだって」
「日本に帰ってこない?」
「そう。フランスには先生のお屋敷が空き家としてまだ残ってるし、幼い頃に住んでた国だからフランスの方があいつにとっていいんじゃないかな」
がくがくと全身が震え始めた。冷や汗が滝のように噴き出す。
「に……日本に帰ってこなかったら離れ離れじゃない。せっかく両想いなのに……」
本格的に勉強ではなく、爽花と慧が仲良くしているところを見たくないからフランスに逃げようという意味だ。どうせ独りならわざわざ日本で辛い思いをしていても仕方ない。無駄だし何より双子の弟に初恋の爽花を奪われたと惨めにはなりたくない。
「どうしてフランスに行くの? 日本でだって勉強できるよ?」
「でももうパスポート用意してあるし荷物もまとまってるし、いつでも行ける状態なんだ。母さんはやめてって止めたけど聞く耳持たずでさ。俺も、せめて帰っては来いよって言ったけど無視された。試しに爽花が寂しがるぞって話してみたら、俺とあいつは無関係だからって答えたよ」
「そんな……」
愕然として足の先から力が抜けていった。両想いになれたのに結局離れ離れとは……。
「もう慧とは恋人同士じゃないって、行かないでってもう一回言ってよ。両想いとはバラさなくていいから、爽花は誰の彼女でもないって伝えて。お願い」
「だめだよ。嘘ついてるって馬鹿にされて終わりだよ」
「なら、あたしが直接伝える。部屋に連れて行って」
「だから、再会はできないってさっき話しただろ。もう遅いよ。本人は行く気満々だし、あいつの夢を叶えてやりたいって爽花も思ってるんだろ?」
抑揚のない口調に爽花は言葉を失った。両想いという奇跡が起きたのに。みんなが幸せになれる未来が待っているのに……。
「……行くのはいつなの?」
掠れた声で呟くと、慧は少し顔を上げた。
「割と早くに行っちゃうんじゃないかな」
「早く? やだ……。やめてよ……」
爽花が嫌がっても予定は変更されない。瑠はフランスに旅立ちフランスで暮らし、完全に再会は不可能となる。ショックで胸が張り裂けそうだ。
「たぶん高校卒業式だと俺は思ってるよ」
「曖昧じゃなくて詳しく教えてよ。思ってるよ、じゃなくて」
焦りが届いたのか慧は大きく頷いた。
「わかった。必ず教えるよ」
「ありがとう。慧しか頼れる人はいないの」
だんだん口調が弱々しく情けなくなってしまう。昨日の天国に昇った気持ちはすっかり失せていた。幸せは長く続かないというが、一瞬で消えるのはあんまりだ。慧も爽花と同じくがっくりと項垂れていた。
「瑠は、フランスで新しく恋人を作って結婚するのかな……」
呟くと寂しげに笑いながら慧は即答した。
「どうだろう。爽花が忘れられなかったら独りで生きていくだろうし、フランスでも爽花みたいに追いかけてくる子が現れたら」
そこで口を閉じた。爽花の瞼に涙が溢れているのに気が付いたようだ。あんなに美しい作品に興味を持つのは当然だ。そして瑠の正体を暴いた子が運命の人となり油彩によって結ばれる。爽花は日本で名も知らない相手に嫉妬し、その強い炎は死ぬまで燃え続け死んだ後も周りの人たちの記憶に残る。慧にもアリアにも迷惑をかけて地獄に堕ちる。妬みがどういう姿なのかはすでにわかっている。とてつもなく重く黒い鉛だ。この嫉妬が人間の中で最も汚い感情だ。
「ごめん。やっぱり内緒にしておけばよかったね。あまりにも爽花が喜んでて言えなかったんだ。まるで天国みたいだなんて話して、ぬか喜びさせるなんて……」
慧がまた頭を下げ、爽花はぶんぶんと首を横に振った。
「謝らないで。話してもらわなかったらもっと悲しいよ。どっちみち離れ離れは決まってたんだもん」
瑠はお互いに愛し合っていた事実も聞かずに別れて余計哀れだ。せめて一度でいいから告げたい。瑠に惚れていると。あなたを愛していると。驚かれても信じてもらえなくてもいつか記憶から失くなっても構わないから伝えたい。
「じゃあ……。行く日時、ちゃんと教えてね。さよならの挨拶したい」
「うん。爽花の想い、俺も充分わかってるから必ず答えるよ」
「よろしくね」
そしてすぐにその場から立ち去った。ほんの少しでも慧を心配させたくなかった。涙を隠して泣き顔を見せたくなかった。授業など受けていられるわけはなく、早退して走ってアパートに向かった。ベッドに勢いよく横たわり号泣した。現実の厳しさに打ちのめされた。
しばらくして泣き止むと天井を眺めた。外は夜に変わっていて部屋の中は真っ暗だ。けれど起き上がって電気を点ける力がなかった。ぼんやりと宙に浮かんでるようだ。両想いになれたこと。両想いになれたのにフランスに行き日本に帰ってこないこと。爽花が努力してフランス語を学び瑠を探せば会えるかもしれないが何年かかるのか。フランス語を覚えているうちに瑠が恋人を作っていたらどうしようもない。このやるせない心をどこへ追いやればいいのか。ようやく愛し合えると嬉しかったのに……。決して爽花と瑠が触れ合うチャンスはない。今までだって数え切れない邪魔が入って、悩んだり迷ったり踏んだり蹴ったりの繰り返しだった。
「瑠……。大好きだよ……。愛してる……」
独り言が漏れ、石のように固まっていつの間にか眠っていた。寝れば現実逃避できる。身も心も疲れ果てて久しぶりに熟睡した。